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「おかしさ」を追求する"漫才"という芸術

「関東芸人はなぜM-1で勝てないのか『言い訳』」には、ナイツ塙さんがM-1で優勝できなかった言い訳が数多く記されています。その言い訳は、本質的には言い訳ではありません。最後まで読み進めるとわかることですが、塙さんが特に思い入れのあるM-1を、再び愛すことを試みるための手段として、「言い訳」という言葉を借りてボケながら、この本に漫才のイロハを凝縮しています。ボケにはツッコミがつきものですが、それを「未来の関東芸人」に託している、とも理解することができるのではないか、と読み進めるたびに思います。
関東芸人だからこそ思う、M-1への道場破りの悲願が、塙さんの心の奥底には常に存在しています。これからの世代に希望を託して、塙さんのこの「言い訳」という最大の怒りのボケを、関東芸人がM-1に優勝することで盛大にツッこんで欲しいのではないか、と思わざるを得ないのです。それは、塙さんの悲願であり、関東芸人の悲願なのです。
この本の『言い訳』という言葉自体を、誰でもいいから全力でツッこんで否定して欲しい。そして、この本に詰められた漫才という芸術の磨き方を、関東芸人のM-1優勝で証明して欲しい、という願いが込められた、素敵な本です。

漫才=芸術

人類が芸術を見出したのは、言葉では伝え切れない思いを作品で表現しようとしたからです。芸術家が感動した時、それが感動と言う言葉で足りていたら、絵画も音楽も想像し得なかったと思うのです。漫才師も同じです。人間の「おかしさ」をおかしいと言うだけでは伝えきれないから、ネタを思いついたのです。漫才と言う話芸が誕生したのです。(本著引用)

漫才とは、芸術。いや、たしかに…と思い知らされた一節です。漫才と一言でいっても、コント漫才やしゃべくり漫才、また男女のコンビや、ピン芸人、コンビ、トリオ、さまざまな形態があります。どのような漫才をしようとも、根底にあるべき考えは「客に心の底からバカだなと笑って欲しいと思うこと。それを極上のネタで実現すること。」と、何度も示唆していました。その思いから外れたり、無理をしたりすると、どうしても不自然な部分が出てきて、客にバレて、会場は冷めてしまい、全くうけなくなる。芸術とは自分から湧き出たモノゴトに正直にならないと伝わりません。漫才も同じなのです。
ここは強調すべきだと思いますが、塙さんは漫才をする芸人をいろんな形態で括ることを嫌います。例えばピン芸人専用のグランプリ、また女性芸人専用のグランプリは、まさに愚かだといいます。それは、漫才は漫才であり、ネタはネタであるのだから、そんな括りは意味がないのだ、という考えからきています。漫才は人を笑かせばいいのであって、その漫才の領域を芸人の性別や人数で、わざわざ狭めることは無意味ではないか、とも問題提起します。その問題とは、もはや漫才に限った話ではないのではないでしょうか。

霜降り明星を選んだワケ

なぜ、霜降りを選んだのか。発想力で言えばジャルジャル、うまさで言えば和牛の方が格段に上です。でも、霜降りには、上手い下手だけでは語れない、芸人としての強さがありました。(本著プロローグより)

霜降り明星の良さとは、塙さんには全く持ち合わせていなかった、とある「強さ」だと繰り返し主張しています。ネタの完成度で言えば圧倒的に和牛だともいいますが、審査員としては霜降りに1票を投じました。そのワケとは。それは、松本人志チルドレンとして、松本さんをリスペクトしているからこその考え、ひいてはM-1というコンテストの根底にある考えを受け継いでいるからこその選択でした。そのM-1の期待に応えられなかったナイツ塙さんだからこそ、霜降りに1票を投じることができた。その訳とは、本著を読んで確認してもらいたいのですが、1言で言うならば、それは「俺を笑ってくれ」と、まるで子供のように願いながら、ネタに、客に直向きに向き合った、その姿勢を感じたからであると思います。芸人としての強さを、その漫才から透視できた。こいつらは将来何かやってくれるかもしれないという得体の知れない期待を機敏に感じ取ったのではないでしょうか。

壮大な野望

きっと彼や彼女たちがM-1で無念にも散った関東芸人の骨を拾い集めてくれることでしょう。壮大な野望は、関東の後輩たちに託したいと思います。
そうだよ、お前のことだよ。(本著引用)

思いは、塙さんの素敵な「言い訳」に引き継がれていきます。漫才は芸術だ。これからの漫才がどのように変異して、笑かしてくれるのか、めっちゃ楽しみです。

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