見たくないものを掘り出す行為

最近、我が家では、家族全員揃っているときにはスマホを極力見ないことに決めた。
せっかく家族みんながいるんだからコミュニケーションをとろう、というわけだ。
といっても、自分と妻と乳幼児の3人だけだけど。
ただ、「なんとなくスマホを見てしまう」行為に罪悪感やうしろめたさ、そして依存性を感じ始めた自分にとって、妻のこの提案は大歓迎だ。
もちろん完璧に抑制するわけではなく心がけ程度のものであるが、どこか心身ともに健康になれている、気がする。

自分でも、なぜ気づいたらスマホに手が伸びているのか、わからない時がある。
漫然とパスコードを入力し、漫然とSNSを開き、漫然と流れてくる文字を眺める。
そして、疲れる。

昔はスマホから疲れを感じることは少なかったと思うし、この疲れは単に加齢のせいではないと思う。
何が昔と違うのか考えてみると、好奇心の行きつく先が変わったことに気付く。

昔も今も、「友人は何を書いているのかな」「おもしろいネタは転がっていないかな」といった興味本位でスマホを眺め始める。
昔はその興味から得られた情報が、ある意味で期待通りのフィードバックだった。
好奇心の行きつく先に、ネガティブな要素は少なかった。

今では、期待したフィードバックの周りやそこに至るまでの過程の中で、否が応でも“ゴミ”が目に入る。
そのゴミに興味が一度でも移ってしまうと、不思議なことにそのゴミを掘り起こしてしまう。
好奇心の行きつく先が、どうも自分の期待したものとは違っていることが多くなった。
そして、疲れる。

また、“ゴミ”だと思っていなかったものを掘り下げていくと、最終的にはゴミだとわかってしまうこともある。
例えば、Twitterでバズっているツイート主の過去ツイを追うと、自分の思想とは全く異なる過激な人物であることがわかったり、
凄く賛同できるツイートのリプ欄を見ると、まったく読むに値しない支離滅裂なコメントが目に入ったりすることがある。
ヒドイ言い方かもしれないが、“ゴミ”が散乱している。

人間には怖いもの見たさというものがあるのか、自然と「見たくないものを掘り出す」ことをやってしまう習性があるようだ。
これはSNSやインターネット上でも同じことで、少なくとも自分はたまにこういった行為をしてしまうことがある。
結局、行きつく先は、「疲れる」か「不快になる」かのどちらかなのに、なぜかゴミを掘り出しては、泥沼にはまっていく。

こういった泥沼に嵌らないように自分が心がけると同時に、家庭内で「スマホを極力見ない」方針が設けられた。
特に余計なストレスを溜めてはいけない時期なので、非常にありがたい方針である。

もう一つ、スマホを漫然と眺める行為が疲れに繋がってしまう要因として、「ネットから得る情報は本当に“取捨選択した結果”なのか」という観点の考え方もある。
昔、どこかで

テレビは垂れ流されている情報を完全に受け身として受け取るだけだが、インターネットは受け手が取捨選択できる

というコメント?を見たことがあったが、果たしてこの考え方は現代にも当てはまっているだろうか?
自分の中では疑問に感じることが多くなってきたので、別の機会に考えてみたいと思う。

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