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「母親」やめたら我が子が愛おしくなった話【我々、今日もひょうきん族。Vol.9】

親になった今、「子どもはかわいい」という人の感情が理解できる。
これだけ言うと、すごく冷徹な人間みたいだけれど。笑

我が子は、愛おしく、尊く、ときに虚しい。そんな存在であることが、今なら苦しいほど理解できる。
自分の中の感性が三つくらい増えたような。
春の夕焼けのような、涼しい風が吹く穏やかなオレンジ色の空のような、そんな感情があることをよっちゃんは教えてくれた。

ただ、数年前の私にはそんな感情がなかった。
そういう感情に気づいていなかった、だけ?なのか?

そんな私が、どうしてこうも穏やかな感情を心に備えられたのかしらと考えてみる。


よっちゃんがお腹にいるとわかったとき、
目の前で控えめにぴょこぴょこ飛び跳ねながら喜んでいる旦那さんを見て、私も嬉しくなった。
もちろん、まだまだ母になる実感なんて湧かなかったけれど。

そして、報告するたびに喜んでくれる親や義両親の姿を見て、さらに嬉しくなった。
この子の存在をこんなにも喜んでくれている、その事実が嬉しかった。

お腹が大きくなっても、生まれてからも、「お母さんになるんだ!」という高揚感は感じなかった。
赤ちゃんがこの世に誕生した瞬間は、涙が溢れて止まらなかった、という人もいる一方で、 私はそれどころではなかった。

24時間の痛みから解放された安堵感と疲労の蓄積で、限界ヨロシクの見事な放心状態だった。
後で振り返ると、母になるという感動や情熱が人と比べて欠如してたのかなあなんて悲しく思ったりしたのだけど、「母になる」とはどういうことかと答えのない深海に潜り込んでいたのかなあと思う。

もちろん簡単に答えは出ないのだけれど、
「母になる」ことを理解することは想像以上に難しかった。


そんな私でも、2年半後に、なんとなく「お母さんにさせてもらっているなあ」と感じることがある。
お母さん、というと少しおこがましいのでちょいと訂正。

同志みたいな関係。
この子がいれば怖くない、と思わされたことが何度もある。

先日、採血の後の、私の腕の注射痕に貼られたシールを見て、
「ママぁ、ちゅーしゃ、いたいいたいだった?」
としかめっ面で聞いてくるよっちゃん。

「うん、いたいいたいだったよぉー」
と口を尖らせて話す母。

その直後。

「ママは、よっちゃんが守ってあげるからねぇ!」
と私の目をまっすぐ見て、よっちゃんが言ってくれた。

(自分の2歳半のときと比べても、ずいぶんと大人だ……!)
(自分が2歳半のときの記憶なんて1ミリも知らんけども。)


その言葉を聞いた瞬間、
どんよりとやる気なく流れていた全身の血液が、わさーーーーっと一斉に流れ出したような、全細胞がハッと元気になったような、そんな感覚がした。

我ながら、我が子の強くなろうとしている姿に返す言葉が見つからなかった。
同時に、親の色んな気持ちを全部汲み取って、強くなろうとしてくれているのではないかと申し訳なくも思った。

これまで、母親らしいことはできているのか、と不安になることが何度もあって、情けない気持ちになることも何度もあった。
思い通りに行かなくて、その鬱屈とした感情を我が子にぶつけたこともあった。

そういう負の感情をぶつけると、親も子も負のスパイラルに陥るのは容易に想像できたはず、にもかかわらず。

穏やかな母性を持ち合わせているタイプでもなかったしなあ、と言い訳がましく思いながらもよっちゃんの優しさと、すでによっちゃんの中に育まれつつある母性みたいなものに救われたのである。
だからこそ、母は育児を勉強しているのだと自分を励ましながら。

私の場合は、何十年後かに、おまけみたいについてくるのかもしれない、と思った。
「母親」という肩書きが。
初めから完璧な母親像で隣にいられるわけではなかった。
もう、いっそのこと、
よっちゃんが大人になったころに、「横にいるのがお母さんでよかった」と言われたら上出来じゃないか。
うぅん!!!!

今はただ、人間界を楽しむ修行僧として
よっちゃんの成長に負けないように一緒に成長していくしかない。
彼女の成長を見逃さないように、
彼女の成長の段階に合わせて母も精進します。


こうやって、母は自分の未熟さに気づいたから(やっと)、同志みたいで放っておけなくて、
この世に誕生したばかりの子どもを見て「子どもがかわいい」と感情をくすぐられるようになったのだろうか。




日々思ったことや考えたことを文章に残すことをしていると、子育てとライティングは似ているなあと思うことがたくさんある。
(この話はまた後日。)


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