終わりは“ある”のではなく、“訪れる”のであり、悔いは “残る” のではなく、“現れる”のだ。
どうもどうも、僕です。
どうですか、今回のタイトル。偉人の名言みたいでしょ。
でもね、オリジナルなんです、僕の(ドヤ顔)。
自画自賛気分で書いてますが、実のところ忙し過ぎて、あまり心の余裕がありません。
年明けから山口への帰省(出戻り)後の転職の準備と、福岡を離れる引っ越しのアレコレでバタバタしてまして、全く映画も観れず、本も読めていません(とはいえ『ゴールデンカムイ』は観ましたケド……)。
Youtubeの次回配信の予定も未だに立てられない状態ですが、どーにかこーにか、元気にやってます。デフォルトの資本だけが、元気というのはありがたいです。
20年住んだ福岡を離れるとなると、毎秒毎時で感慨深い瞬間がありますね。仕事をしてても「あ? もしかして、これが最後の発注か?」とか、「この人と話す世間話、これで最後なんか?」とか。
退職後も、いきつけの定食屋で(店主は僕の顔を見ただけで、いつものメニューを持ってきてくれるような所なんですけど)、「この店も、これが最後かな~?」とか、「この道を歩くのは、これが最後かもな~」とか、いちいちありますね。
いちいちあるので、一つ一つに寂しんだり悲しんだりするとキリがないので、感情を抑えてますが、それでも、図らずも場所と記憶が結びついて、ふと「ああぁぁ」となります。
悲しい、寂しい、懐かしい、そういった素早く言語化できる感情ではないんだけど、その成分が数十%ずつ全部入ってるような、脳内でじゅわーっ、と感情の汁が滲み出るような感覚です。生活の様々な瞬間に、脳が、じゅわーっとなってます。
でもこれって、勝手に自分がそう感じる状況にあるからってところが多いんですよね。仕事辞める前まであと何日だとか、福岡を離れるまであと何日だとか、要はタイムリミットがあるという条件付きで発生しやすい感情のような気がします。
いまのこういった状況で「終わりがあるから、悔いが残る(のか?)」というようなことを、よく考えます。
いや、厳密には、終わりは “ある” のではなく “訪れる” のであり、悔いは “残る” のではなく、訪れた終わりに対して “現れる” のだと思います。
「いつかは、この生活も終わる」それは心のどこかで重々承知しているはずだし、それに備えて悔いなく生きるよう頑張っても、終わりという状況に、悔いは必ず現れるようになっているような気がする。
“やってくる”という受動的な表現ではなく、“(こちら側から)訪れる”という能動的な表現にしたのも、その終焉のカタチは実は、意識的、無意識的に限らず、己の日頃の振る舞いと習慣から、導き出される結果のように感じるからです。
何かを成し遂げよう、挑戦しようと思ったときの気持ち、その初期衝動の力は、ロケット打ち上げの瞬間のように凄まじいのですが、勢いに乗って新しい世界に到達し、その世界での身の振り方に慣れてくると、次は衛星軌道上を穏やかに航行する人工衛星のように、安定した状態に移行する。
その中で、変化への些細な恐怖心や惰性が、いずれやってくる終焉への後悔の種となり、いよいよ終わりに差し掛かると、その種が芽吹く。その瞬間に、「ああぁぁ」という感情と共に後悔は表れるのです。
こう考えると後悔というの念は、事業で、人気取りで、成功者といわれる状態になったとしても、どう足掻いても、避けられぬ感情なのだろうと痛感します。
今回は、自分が20年間、好きな風に生きてきた都会(とはいえ、福岡という地方都市ですが……)での暮らしを終えるというタイムリミットですが、これが人生のタイムリミットだったら? と考えると末恐ろしい。
先日、知人との会話で、「いつどうなるか分からないから、その時の為に遺言書を毎年書くのが良いのか」、「いつどうなるか分からないからこそ、遺言書を書くような死を前提にした生き方はせずに、生の方を向いて生きる方が良いのか」という話になった。
そのどちらも間違えではないし、そのどちらの生き方でも、何かしらのカタチで悔いは残るだろうと思う(あとは各々の価値観、幸福観の中での判断になるでしょうが)。
人生での様々な経験は、最終的に走馬灯のストックだとするならば、その質と内容を変えていくしかない。これから、どんな想い出と経験をストックできるだろうか。可能な限り、周囲の人々とは笑い合い、幸福を交換し合っていきたいと願っています。
福岡を離れるまで、あと2日。トラブルなく万事順調に行きますように。
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