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読書記録③自由論

中世哲学がにがてだった。
哲学は神学の端女だ?やんのか?

それいらい、キリスト者の哲学、というか倫理学には(蔑まれている気がして)少しくトラウマをおぼえていた。
【逆に宗教者は無宗教者の倫理学をとるに足らないものだと思ったりするのだろうか】
J.S.ミルに出会うまでは。
【「満足な豚より不満足なソクラテス」は今の僕の指針のひとつ】

本書は、
「自由の尊さ」→「個性の尊さ」→「社会のあるべき姿」という構成で書かれたあまりに客観的な自由論である。

そういえば哲学書は久しぶりによんだな。やっぱりいいね。
抽象をわたりあるき、自分の生きる世界へ落とし込むのはきもちいい。夏合宿の朝のさんぽのようなさわやかさ。いっしゅんでも気を抜くとここがどこだかわからなくなるけど、どこかふわふわしながらも、ひとつひとつの言葉をしっかり踏みしめると揺るがない道がおのずと足にすいつく。

哲学書の効能としては、朝露のようなここちよさと、あらゆる具体への還元性がある。わかりやすいハウツー本にくらべ、哲学名著を読む意義はそこにある。
ひとが言葉を使うかぎり廃れない価値だ。
【もちろん言葉を使わなくなってもその価値は廃れないが、いかんせん読めなくなってしまう】

本書の中でも最も抽象的な序章、第一章、第二章あたりは感激の連続だった。
自覚的なキリスト者のゆるぎなく(だからこそ)柔軟な信仰にはやはり、すがすがしさをおぼえる。

【感動ポイント】

「自分がマルクス・アウレリウスよりも一層賢明または善良な人間であり(中略)一層誠実であると自惚れるなら別であるが、さもない限りは(中略)自己および一般民衆の意見の絶対無謬性を仮定するようなことは差し控えた方がよいとお思われる」p.58

←あの大天才アウレリウスさえキリスト教を迫害するという"ミス"を犯した!という論調。このあと、
・人間は誰しも絶対無謬性ではない
逆に、
・異なる教義が真理かもしれない
 ↓
・異なる教義が少なくとも真理の一部を含んでいるかもしれない
・異なる教義がないと己の信じる教義は議論されなくなり教文を暗記するだけの無意味な教義となるとして、あらゆる宗教(主義、言説、信条……)が存在してもよい/しなくてはならない、ことを解いていく。

どうですかこの胸をすくような客観性。信仰のきよらかさ。
【信仰のきよらかさなんて、他者が測るものではない。が、感動するほどに透明なのだ】

自由とはなにか悩むとき。「自由」がもてはやされすぎて、逆に不自由を感じているとき。心の換気におすすめです。

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