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話し言葉の面白さ、方言の制限と自由

日記なんて続かないのだけれど、夏くらいからあれやこれやよく書いた。ここで書きたいのは、その中身ではなくて、書き方の話。

私的なものを書くときは、口語調が書きやすいことに気付いた。話すように書く。日ごろ、人の文章を整えることが多いせいか、日記的なメモにまで、分かりにくい日本語の自動抑止装置が働いてしまう。でも、ナラティブのテクストは書くのも読むのも楽しい。

日記でなくてもよくて、語りはストーリーをアクチュアルにする。なぜなら、ストーリーの前提に語り手の存在があるから。同じことを言いたくても、言う人によって、大きく文章は異なるし、それが情報の性質さえも変えてしまう。そういえば、そんな話を先輩としたばかり。

無論、書き手のイメージなんて、読み手の勝手な幻想だけれど、幻想であっても問題ない。まっさらな書き手のイメージより、少し書き手に色が付いていた方が逆に文章から湧き起こる想像も膨らむという話。

一方で、ナラティブの限界であり、一方の可能性とも言えるのが方言ではないだろうか。先日、幼なじみからのLINEに「なんでやねん」の文字。続いて、「なんでやねんって、文字にすると結構きついなあ。」

そう、方言は受け取り方を書き手が選択できない。標準語に比べれば、その語調や声調によって随分と印象が変わってしまう。そういった印象の差異を埋めるのが文脈であることは標準語とは変わらないのだけれど、ナラティブの良さはやはり声が伴ってのことかもしれない。

コテコテの関西弁の漫才も落語も、テクストを劇場のスクリーンに流したって、大爆笑を生むことはできない。

とはいえ、台詞に留まらずに方言を取り入れるなんてことは、あらゆる作家が実験してきたことだから、そんな懸念は置いておく。

結局、最も重要なのは、方言を書き言葉に取り入れることの効果よりも、バルト的な話というか、関西弁を使うことによって、思考が変わることではないだろうか。筆に任せて、関西弁で小説を書いたら、人物の人格は確実に変わってくる。

学術的なナラティブの手法に詳しくはないけれど、きわめてローカルな言葉やジャーゴン(jargon)、独特の語調によって伝わるものをどのように記すか。明確な答えはないにせよ、やはりナラティブというなら、当然できる限り編集をしないことが適切な編集になるのだろうと考えている。

つまり、ナラティブをテクストに落としたときに起こるある種の情報(主に音)の欠落は、読み手の想像力による補足が必要な点で、それが逆に魅力であり、余白になりうるのではないだろうか。

(そして、テクストというのは常に開かれている一方で、書き手の手を離れた瞬間に閉じてもいる。)

河原町に着いたのでここで終わり。

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