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冷たい男 第3話 チーズ先輩

"冷たい男"と彼は町の人達から呼ばれていた。

 親しみを込めて。

彼は、生まれ落ちた時から身体が冷たかった。

 触れた相手を凍えこごえさせてしまうほどに。

 その手に触れられると骨の芯まで身体が震え、長く触れると皮膚が凍てついてしまう。

 食べ物を口の中に入れるとその途端に冷凍し固まってしまう。

 生まれてすぐに助産師を凍えさせてしまった彼を当然、病院は精密検査したが体温が異常に冷たい以外の異常はなく、検査の結果、"正常"と判断された。

 彼は、体温が凍えるほどに低いだけのただの人間であると医学が証明した。

 体温が異常に低いだけの普通の男の子として普通の生活を送っていった。

 普通の小学校に通い、友達と遊び、町内会のお祭りや運動会と言ったイベントに参加し、両親が共働きだったので放課後は週3回ほど学童クラブに通っていた。

 そして現在、彼は、同じ学童の卒業生である少女と共に
学童の手伝いに参加していた。

 牛乳を500ccに卵を1個、そして砂糖をレシピよりも少し多めに鍋の中に入れて煮立たないように弱火でゆっくり木ヘラでかき回す。
 その際に「美味しくなーれ」とお呪いまじないをかけるのも忘れない。
 少女は、何度も「美味しくなーれ」と呟きながら丁寧に、とろみが出るまで掻き回す。その姿を1年生から6年生までの男子学童たちが「可愛い」と見惚れていていたのだが、少女はまったく気づかずに作業に集中していた。
 充分にとろみの付いた白い液体を長方形のトレーの中に流し込み、バニラエッセンスを足す。
「よろしくね」
「はいよ」
 冷たい男は、右手を上げて次の工程を引き受けると、手袋を外した両手で湯気の上がる熱されたトレーの端を触る。
 その瞬間、湯気が消え去り、液体の表面が新雪のように滑らかに凍る。

 バニラアイスクリームの完成だ。

 子供たちから歓声が巻き起こる。

 冷たい男は、手袋をはめ直すとアイスクリームディッシャーで綺麗な丸になるように丁寧にバニラアイスクリームを取り、少女が用意したピンクのカップによそう。
「はい、どうぞ」
 1番前に並ぶ1年生の女の子に渡す。
「トッピングはお好きにね」
 そう言ってにっこりと微笑むと女の子は、少し頬を赤らめて「ありがとう」と言って去っていく。
 女の子の反応の意味が分からず彼は、小さく首を傾げる。
 少女は、その様子を見て「人たらし」と呟き、目を細めて睨む。自分が男子学童たちを魅了していることになんて気づきもしない。
 そんな2人の様子を学童の指導員たちは微笑ましく見ていた。

「今日はありがとうね」
 ふくよかな中年の女性指導員が恵比寿様のような和かな笑顔を浮かべて2人に感謝する。
 子供たちは、2人が用意した手作りアイスクリームを夢中で食べている。そのまま食べる子、チョコスプレーを掛ける子、フルーツソースをかける子など様々だ。
 少女も自分の作ったアイスにチョコスプレーを大量に掛けて食べている。
 冷たい男はと言うと・・・。
 熱々のミルクセーキ上にしたアイスの原液をそのままカップに移して飲んでいた。
 そうすることで口に入った瞬間には程よいアイスクリームへとなっている。
 滑らかな甘みが文字通り口の中全体に広がる。
「ちょっと溢れてるわよ」
 少女は、ポケットから花柄のガーゼタオルを出すと彼の口元を優しく拭う。
「ああっごめん」
「ちゃんと食べないと口元が凍りつくわよ」
 パリパリになったガーゼを膝の上に乗せて少女は言う。
 その様子を見て女性指導員は、くすりっと笑う。
「変わらないわね。あなた達は」
 2人は、きょとんっとした顔でお互いの顔を見て、そして女性指導員を見る。
「学童に通ってた頃から2人はいつも一緒にいたわね」
 女性指導員は、つい昨日のことのように小学生の頃の2人を思い出す。

 1年生の頃から2人はいつも一緒だった。

 冷たい男は、幼稚園出身。
 少女は、保育園出身。

 生まれた病院も違えば町内会も違う。
 親同士も面識もなければ職業も違う。

 接点などまるでない、特に異性ともなれば仲良くなるのも難しい。

 それなのに学童に入所してから1ヶ月後には2人は一緒にいた。
 公園に遊びにいく時も、虫取りする時も、室内でベイブレードで遊ぶ時もずっと一緒だった。
 一緒にいすぎて指導員ですら入り込むことが出来なかった。
 その関係は、2年生になっても3年生になっても4年生、5年生・・・卒業するまで変わらなかった。
「そして卒業してからもずっと一緒とはね」
 呆れを通り越して感心する。
 自分達以外に友人が出来たのかと心配になる。
 そして当の2人はと言うと・・・。
「そう言われてみれば・・・」
「そうね」
 などと、恥ずかしがる素振りすら見せなかった。

 どこの熟年夫婦だ?

 感心を通り越して再び呆れてしまう。

「2人は何でそんなに仲良くなったの?」
 10年以上胸に抱えていた疑問を思わず口に出して聞いてしまった。
「何でと言われても・・・」
 彼は、首を傾げる。
 思い当たる節なんてないといったのが表情から溢れていた。
 しかし、その隣にいる少女は違っていた。
 明らかに頬を赤らめ、アイスのカップを持つ指モジモジ動かす。
 それは熟年夫婦ではない、恋する純粋ウブな乙女そのものだった。
 女性指導員のおばちゃん心が大いに擽られる。
 少女をつっつこうと前のめりなりかけた時、彼が突然声を掛けてくる。
「フーせん」
 フーせんとは、学童での女性指導員の呼び名だ。
「あの子って前からいたっけ?」
 彼に言われ、女性指導員は、振り返る。
 子ども達が漫画を読んだり、カードゲーム、剣玉をして遊んでいるその隅にその子は足を組んで座っていた。

 古い感じの子ども。

 あまりにもな表現だがそれが1番しっくりくる。

 後ろをこれでもかと刈り上げたおかっぱ頭、どんぐりのような丸い目に丸い輪郭、白とピンクの水玉のタンクトップに半ズボンに白い靴下。
 戦時中の子どものような出立ちだ。
 そして何よりも気になるのはその雰囲気だ。
 うまくは言えないが、妙に他の子達と雰囲気が違う。

 人間というよりはまるで・・・。

「ああっあの子ね」
 女性指導員は、笑顔で言う。
「今年入った1年生の子よ。可愛いでしょう」
「いつもあんな1人でぽつんっとしてるの?」
「そんなことないわよ。いつもみんなと一緒に剣玉や虫取りして遊んでるんだけど・・・何かあったかしら?」
 女性指導員は、眉を顰め、顎を摩る。
「そういやアイスも取りに来てないね」
 少女も気になって眉を顰める。
 彼は、トレーに残ったアイスの原液を未使用のカップに移すと立ち上がっておかっぱ頭の子に寄っていく。
 少女は、アイスをあげに行ったのだと微笑ましく見ていた。
 しかし、彼が近づき、声をかけた瞬間、おかっぱ頭の子は、怯えた表情を浮かべて彼を突き飛ばし、正面口まで走ってそのまま外に飛び出していったのだ。
 彼もアイスのカップを持ったまま、おかっぱ頭の子を追いかけて外に飛び出す。
 少女と女性指導員、そして子ども達は唖然と2人の去った正面口を見る。
 彼は、おかっぱ頭の子にこう声をかけただけだ。

「君、人間じゃないだろう?」

 説明が遅くなったが、学童の施設は町の大きな公園の中にあるコミュニティーハウスな併設されている。
 元々は、小高い山だったものを町民につかいやすいように開拓された公園にはジョギングしている人やベンチでご飯を食べている人、子どもを連れた家族やペットの散歩をする人たちが多くいた。

 そんな中で白いタンクトップ着たおかっぱ頭の子と青年男子の追いかけっこは、人の目を引いた。

 バレた、バレた、バレた!

 おかっぱ頭の子は、必死に走った。

 両手をぶらぶらと振り回し、涎を垂らし、ヨタヨタとしながらも2本と足で必死に逃げた。

 歩くのにはだいぶ慣れたけど走るとなるとやはり2本足ではまだ厳しい。何度も転びそうになる。でも、止まる訳にはいかない。元のように走る訳にはいかない。

「おーいっ待ってくれー」
 後ろから男が追いかけてくる。
 冷たい男と指導員たちから呼ばれている男だ。
 彼は、アイスのカップを持ちながら、器用に、そしてかなりの速度で走ってくる。

 彼が触ったものを凍らせた時は驚いたけど、特に何の力も感じなかった。

 ちょっと変わった体質を持った普通の人間、ただそれだけと思っていた。だが、変わった体質を持っていると言う事はそれだけ常人と違う感覚が働くのかもしれない。

 自分が人間じゃないと感じられるくらいには。

 とにかく今は逃げないといけない。

 捕まったら・・・食べられる!

 おかっぱ頭の子の髪の間からぴょこんっと茶色い尖ったものが飛び出した。

(速いなあ)
 あんなにヨタヨタなのに何でこんなに速いんだ?
 それとも自分が遅いのだろうか?
 確かにこの体質のせいで運動部には入れなかったけどそれなりに運動神経は良いと思っているし、筋トレやランニングもしてるのに・・・。
 それとも捕まるまいと必死に走っているからだろうか?

 君、人間じゃないだろう?

(あんなこと聞くんじゃなかったなあ)

 何か困ってそうだな?と思って聞いてみただけだったのに。
 まさか、怯えて逃げ出すとは思わなかった。

 人外と触れ合い過ぎたなあ、と胸中で言い訳しつつも自分の浅はかさを猛省する。

(とりあえずあの子を捕まえないと・・・)

 あんならパニクった状態で正体がバレたら大変だ!それに学童にも迷惑が掛かる。

 そんなことを考えている間に最悪の事態が起きる。

 おかっぱ頭の子の頭からぴょこんっと小さな三角形のものが2つ飛び出したのだ。

 その茶色でモフモフとしたものは間違いなく・・。

(耳だ!)

 彼は、思わず周りを見回す。

 2人の追いかけっこに注目はしているもののおかっぱ頭の子の頭に生えたものには気づいていないようだ。

 しかし、それも時間の問題だろう。

 早く捕まえないと・・・。

 焦る彼の視界にあるものが飛び込んできた。

 池だ。

 この公園には安らぎスポット兼子どもの遊び場として小さな人工池が設けられている。
 大きな池ではないが普通の人が飛び越えられるような小さなものでもない。
 しかし、おかっぱ頭の子は歩調を緩めることなく、池に向かって突き進んだ。

(飛び越えるの⁉︎)

 あそこを越えられたらもう追いかけられない。
 冷たい男は、焦って手を握り締める。
 メキョッとした感触が手を伝わり、見るとおかっぱ頭の子に上げようと持っていたアイスだった。
 ピンクのカップに入ったアイス、手袋越しに持っていたので中原溶けかけていた。
 彼の頭に電気が走る。
 彼は、口で手袋を脱ぐとその手をカップに添える。
 手の表面に直で触れたカップは氷の膜を貼り、真っ白な霜を張って凍っていく。
 彼は、それを池に向かって思い切り投げた。

 おかっぱ頭の子の目の前に小さな池が広がる。
 普通の人間には無理だけど自分なら飛び越えるのことができるくらいの大きさの池・・・。
 おかっぱ頭の子の目が輝く。
 ここを飛び越えれば体質以外は普通の人間の冷たい男も追いかけてこないはず。
 おかっぱ頭の子は、両手を地面につけて4本足で走る。
 変身こそ解いていないがやはりこっちの方が走りやすい。
 おかっぱ頭の子は、最大限の助走をつけ、池の端に両手を叩きつけて一気に飛び上がった。
 小さな身体が池の上を飛ぶ。

 ドバンッという音が上がったのはその直後だった。
 池の表面が激しく揺れ、水柱が上がる。

「ふえっ?」

 おかっぱ頭の子は思わず間抜けな声を上げる。
 跳ね上がった水柱がおかっぱ頭の頭の子を濡らし、そのまま凍りつく。
 おかっぱ頭の子は、大きな腕を伸ばした氷の巨人に握られるような形でそのまま静止する。
 何が起きたのか分からず頭の中で小さな火花が幾つも上がる。
「良かった、間に合った」
 凍った池の上を滑らないように気をつけながら冷たい男が走ってくる。
 どうやらこれは彼の仕業らしい。
「いやー、思いっきり凍らせたアイスのカップを池に投げたんだ。うまくいったらドライアイスみたいに周りを凍らせることが出来るかな?と思ったら予想以上だったよ」
 照れたように言うが、正直、何に照れているのか分からない。
 おかっぱ頭の子は、抜け出そうと何度も身体を捩るがびくともしない。
 それに気づいて冷たい男の顔がそれこそ氷のように青ざめる。
「しまった。凍らせた後のこと考えてなかった」
 漫画だったら間違いなくガーンという音が立つことだろう。
 実際、おかっぱ頭の子の中で状況が整理できず、ついにオーバーヒートを起こしてしまった。
「あ・・・っ」
 小さく呻き声を上げておかっぱ頭の子は気を失う。
 ポンッとポップコーンが弾けるような音が響く。
 それと同時におかっぱ頭の子の姿が消え、穴の空いた氷の柱だけが残る。
 黒いものが柱から零れ落ちる。
 彼は、慌てて手を伸ばして受け止める。
 それは猫くらいの小さな子狸だった。

 子狸が目を覚ますとそこは学童の施設だった。
 あれ?夢だったのかな?と寝ぼけ眼で首を回す、と。
「あっ目を覚ましたよ」
 少女が大きな目を輝かせて言う。
「本当だ。良かった・・」
 冷たい男は、ほっと旨を撫で下ろす。
 子狸は、ぼうっと2人の顔を眺め、そして大きな声で叫ぶ。
「ぎゃあああああ!」
 子狸は、身を翻し、部屋の隅っこへと走って逃げる。

 捕まってしまった・・・!
 このまま食べられるんだ・・・・!

 子狸は、ガタガタ身体を震わせる。

 しかし、冷たい男と少女は、きょとんっとした表情で首を傾げ、お互いの顔を見る。
「あんた何かしたの?」
「何もしてないよ。ただ捕まえる時にちょっと池を凍らせて・・・」
「それよ!びっくりしちゃってるじゃない」
 少女は、呆れ顔でため息を吐く。
 そして小狸の方を向くとにっこりと微笑む。
「そんな怖がらなくて平気よ。ここに貴方をいじめる人はいないわ」
「子ども達も帰ったし、ふーセンにはちゃんと家まで送ったっていってあるから平気だよ」
 冷たい男も柔らかく微笑む。
「話せるんだろ?」
 冷たい男がそう言うとこの子狸は、大きく目を開く。
「・・・ひどいことしない?」
 キーの高い声を震わせ、絞り出すように子狸は言う。そして怯えた上目で2人を見る。
 2人は、同時に頷く。
「・・・食べたりしない?」
 その発言に2人は口を丸くする。
「・・・どういう意味?」
 冷たい男が訊くと子狸は、びくっと身体を震わせる。
「だって・・・人間って狸食べるんでしょ?インスタントのお蕎麦にあるし・・・」
 2人の脳裏に緑のパッケージの有名なインスタント食品が浮かぶ。
 2人は、大声で笑う。
 子狸は、ビクッと身体を震わす。
「あれは天かすよ」
 少女は、目に涙を浮かべながら言う。
「狸のお肉なんて入ってないわ」
「出汁も普通の化学調味料だよ」
 冷たい男も喉を震わせて言う。
「だから安心して。誰も貴方に危害は加えないわ」
 優しい笑み。
 信用できる温かい笑み。
 子狸の身体から力が抜ける。
 緊張の線が切れた子狸は、そのままパタンッと床に伏せた。

「君は、化け狸だね?」
 冷たい男は、残ったバニラの液を全てアイスに変えると手袋をはめ直して子狸に渡す。
「はいっ」
 子狸は、狸の手のままに器用にカップとスプーンを受け取る。
「学童にはどうしていたの?」
「・・・学校に通うため」
「学校に?」
 チョコスプレーをたっぷりかけたバニラアイスを頬張りながら少女は、首を傾げる。
 子狸の話しによると彼の両親は、バケ狸の中でも開拓派らしく時代が刻一刻と動いていく中、バケ狸もただ化けて人を脅かしているだけでは駄目だと、一大発起し、人間社会に出て働き始めたそうだ。
「働いてるの⁉︎」
 少女は、思わず口に咥えたスプーンを落としそうになる。
「はいっこの町から少し離れたところにあるお蕎麦屋さんで」
 また、蕎麦か・・と冷たい男は、バニラの原液をシェイクのように飲みながら胸中で呟く。
「お父さん、昔からお蕎麦に興味があったみたいで毎日食べ歩いたり、インスタント食品買って来たりして研究してました」
 その中に緑のパッケージがあり、衝撃とともに人間は狸を食べるのだと思い、日々怯えていたらしい。
「ちなみにお母さんは?」
「一緒にお父さんと働いてます。カンカン娘らしいです」
「カンカン娘?」
 少女は、眉根を寄せる。
「看板娘じゃないか?」
 冷たい男がそう言うと少女は、スプーンを咥えたままポンっと手を叩く。
「2人は、人間社会で働いている内に人間の文明と文化の素晴らしさに感銘を受けて、自分にもそれを学んで欲しいと思って・・・」
「学校に通わせた訳か」
 子狸は、頷く。
「でも、2人とも仕事が忙しくて放課後は一緒に入れないからってことで学童に入ったんです」
 こういっちゃ何だがどこの家庭にでもある事情だ。
 我が家だって同じような事情だから学童に通っていた訳で・・・。

 しかし、それが狸家族に通用するとは・・・。

 世の中って本当に不思議だな。

 少女は、胸中で呟き、アイスを食べる。

「それじやあさっきのもいつバレやしないか怯えてたってこと?」
 そうだとしたら悪いことしたな、と冷たい男は頭を掻く。
 しかし、子狸は、頭をブンブン横に振る。
「いえ、変身にも大分慣れたので家に着くまでは保ってられます。歩いたり走ったりは4足の方が楽ですけど」
 なるほど、それで追いかけっこしてた時にあんなにヨタヨタしてたのか・・・。
 まあ、十分速かったけど。
「友達とも仲良くしてるし、むしろ楽しいです」
「それは良かった」
 OBとしては安心だ、と少女は喜ぶ。
「じゃあどうして落ち込んでたの?」
 子狸は、顔を俯かせる。
「"古の葉"を無くしちゃったんです」
「葉っぱを?」
 少女は、聞き返す。
「いえ、葉っぱには違いないんですけど、妖力のこもった特別なもので"迷い家まよいが"に入るために必要なものなんです」
「迷い家?」
 冷たい男は、眉を顰める。
「迷い家って柳田國男の遠野物語の?」

 訪れた者に富をもたらすと言う幻の家。

 ある日、ふきを取ろうと山を歩いていた男が立派な屋敷に迷い込んだ。ご飯が用意してしたあったり、風呂が沸いてたり、子どもの玩具が転がってたり等、ついさっきまで誰かがいたような形跡はあるのに誰もいない。男は、置いてあった見事な漆塗りのお椀を持って帰るとそこから米が無限に溢れてきたと言う・・・。

「それはあくまで伝承で実際には自分たちのような御使達の家なんです。人間が迷い込むとそこらにある家具とかに変身するのでいないと思うんだと思います」
 子狸は、そう言って口元に小さく可愛らしい笑みを浮かべる。
 その顔は、アニメに出てくるような動物擬人化キャラみたいで可愛くて少女は思わず抱きしめたい衝動に駆られた。
「そんなんだ」
 冷たい男は、関心するように頷く。
「じゃあ、その話しから察すると迷い家は君たち家族ってことなのかな?」
    子狸は、頷く。
「今日は両親の帰りが遅いからって初めて古の葉を持たせてもらえたのに学童に着いたらどこにもなかったんです。探しに戻ったんですけど、風で飛んでしまったみたいでどこにもありませんでした。あれがないと帰れないんです。どうしたらいいんだろうと思って・・・」
 話しているうちに子狸は、自分の置かれた状況を思い出し、目を赤くして泣いてしまう。
「つまりお家に入る鍵を無くしてしまったのね」
 少女は、アイスの最後の一口を食べて小さく唸る。
 そしてカップを置くと子狸の小さな頭を撫でる。
「じゃあ、お姉ちゃんが一緒に探して上げる」
 子狸は、ばっと顔を上げる。
 人間とは明らかに違う顔なのにその表情が驚いているものと分かる。
「おいっそんな簡単に・・・」
「何よ。どうせあんたも探すつもりだったんでしょ?」
「まあ、そうだけど・・・」
 冷たい男は、図星を指されて口をモゴモゴさせる。
 少女は、満足そうに微笑む。
「でも、古の葉ってことは葉っぱだよね。どう探そうか?」
 少女は、探偵漫画のヒロインのように両腕を組んでうーんっと唸る。
「オレらじゃ葉っぱの見分けなんてつかないもんな。それこそ魔法でもないと・・・」
 冷たい男の頭に電気が走る。
 表情を電灯のように輝かせて少女を見る。
 少女も同じ事を考えたらしくキラキラした目で冷たい男を見る。
 子狸は、訳が分からず2人の顔を見比べる。
 2人は、一斉に答え合わせをする。

「「チーズ先輩!」」

 町の商店街から少し離れた森を少し歩いたところにその家はあった。
 オレンジ色の瓦屋根と砂糖細工のような滑らかな光沢を放つたくさんの大きな窓、そして栗や楢の色の明るいオーク材をふんだんに使った西洋風の家だ。
 木々の間から溢れる夕日に当てられたその家は文学書から出てきたかのように淡い印象を与えた。
 少女の手提げ鞄の中に入っていた子狸は、顔だけをひょっこりと出し、小さな鼻を動かす。
 熟れた果実と清涼な葉っぱ、そして舐めたくなるような甘い花の香りが辺りを漂う。
 子狸は、首を傾げる。
 家の周りには果実の木は無く、花々やハーブなんかは生えているがここまで入り混じった匂いは普通しない。
「ねえ、この匂いって?」
「ああっ気づいた?」
 少女は、にっこりと笑う。
「あれのせいだよ」
 冷たい男は、大きな正面玄関を指差す。
 分厚い木製の扉の横に置かれた黒いウェルカムボードが置かれ、西洋風の家には似つかわしくない和的な字体が書かれている。

"香り屋"

 ウェルカムボードには、大きく、達筆にそう書かれていた。

 冷たい男が正面玄関をそっと開ける。
 その瞬間、甘い、清い、苦い、強い、心地よい等の匂いが殴りかかるように子狸の鼻に入り込んできた。
 子狸は、思わず鼻を押さえる。
 それに気づいた少女が慌てて庇うように子狸を身体で包み込む。
「ごめんっ臭かった?」
 少女が子狸を覗き込む。
 子狸は、目を大きく瞬かせて鼻を押さえたままブンブンと首を振る。
 人間に化けたままなら明らかに顔を赤らめている。
「大丈夫。突然の匂いにびっくりしただけ。鼻を押さえておけば平気」
「気持ち悪くなったら言ってね」
 そう言って手提げ鞄ごと子狸を胸に抱えながら冷たい男の後に続いて中に入る。

 そこはとてもお洒落で綺麗な空間だった。

 正面玄関から入った一行を最初に出迎えたのは大きなテーブルを埋め尽くすくらいに並べられた色とりどりのドライフラワーだった。
 つい先ほどまで生花だったのではないかと疑いたくなるほどの生き生きとしたドライフラワーは、ゆっくりと左右にその身を揺らして甘く、柔らかな芳香を放っていた。
 天井に取り付けられたランタンから漏れる淡い灯りがドライフラワーの色を暖かく色づかせる。
 左右の壁際には黒塗りの大きな棚が置かれ、右側の棚には薬品を入れるような遮光を避ける為の茶色の瓶が千代紙のような艶やかなラベルを貼られて所狭しと並び、左側の棚は少し斜めに傾いており、その中にはアイスクリーム屋を想像させるような箱がたくさん並べられ、その中には緑、赤茶色、黒の茶葉や果物の皮を干したものが納められていた。
 カウンターの側に置かれた籠にはたくさんの種類の固形石鹸が詰め込まれ、コーヒーの豆の入った大きな瓶もある。
 子狸は、鼻を押さえつつも好奇心旺盛に家の、いや店の中を見回した。

「おや、珍しいお客さんだね」
 店の奥から人がやってきた。
 子狸は、慌てて鞄の中に隠れ、隙間から外を覗き込む。
 年は50代後半と行ったところか?白みがかった金色の髪、年輪の刻まれた切長の青い目に白い肌、少し尖っているが整った鼻梁、背は高く、黒いゆったりとしたワンピースを着ているがそれでもスタイルの良さが分かる。
「よく来たね。何年振りだい?」
 見かけは英国風の白人なのにとても流暢な日本語で話し、大きな笑みを浮かべる。
 彼女の言葉に2人は、少し呆れたようにじとっと目を細める。
「2ヶ月前に石鹸買いに来たでしょ?」
「オレもついこの間、会社で使う蝋燭やお茶の発注に来たと思うけど」
 ため息混じりに2人に言われ、彼女は素知らぬ顔で天井に視線を向けて頬を掻く。
「本当、おばさん客商売なんだから少しは覚えようね」
 少女が口をへの字に曲げて言う。
「あんた達は客とは違うだろう・・・」
 おばさんは、言いかけた言葉を止め、少女の持つ手提げ鞄をじっと見る。
「バケ狸だね。珍しいお客さんだ」
 手提げ鞄の中から子狸が鼻を押さえたまま顔を出す。その目は驚きに丸くなっている。鞄の下に隠れていたのに、なぜ姿も見ずにバケ狸と分かったのか?
 しかし、おばさんは、そんな子狸の思慮など気にもせずに近づくと尖った鼻が触れるほどに顔を近づける。
「貴方にはここは臭すぎるでしょう。ちょっと待ってね」
 そう言うと綺麗な紫色にマニキュアされた指を子狸の鼻元に近づける。
 そして小さく何かを唱える。
 子狸は、自分の鼻と口が熱くなるのを感じた。
 そして何か柔らかい、シャボン玉のような物に覆われているような感覚に捉われる。
「これはサービスだよ」
 そう言ってにっこりと微笑み、顔を離す。

 匂いがしない。

 いや、しない訳ではないけど先程までの頭を突かれるような強臭はしなくなった。逆に食欲をそそるような甘い香りと清涼感が鼻を包む。
「鼻と口の周りにマスクを付けたのよ。今は人間と同じくらいの嗅覚になってるよ」
 子狸は、口元を触るがマスクなどない。
 ただ、暖かい空気のようなものを感じるだけだ。
「店を出ると消えてしまうから安心して。所詮はサービスだから」
 そう言っておばさんは、ウインクする。
「ひょっとして・・・おばさんって魔女?」
 恐る恐る子狸が言うとおばさんは、びっくりして細い目を大きく広げ、そして冷たい男と少女を睨む。
「あんた達、何も言わないでこの子をここまで連れてきたの?」
 今度は、2人が素知らぬ顔で宙を見上げる。
「いや、言う暇なくてさ」
 冷たい男は、頭を掻く。
「急いでたもんで・・・」
 少女も小さく髪を弄る。
 言い訳も困った時の仕草も一緒でおばさんは思わず苦笑する。
「で、今日は何しに来たんだい?」
「先輩ってもう帰ってきてる?」
 冷たい男が聞くとおばさんは、天井を指差す。
「寝てるよ」
「夕方なのに?」
 相変わらずだな、と少女は肩を竦める。
「そこに関しては言い訳も出来ないよ。今日は大学も休講だからってずっとぐうたらしてるよ」
 おばさんも少し呆れているのか、声が少し小さい。
「はあっ早くあんた達みたいにリア充になって欲しいもんよね」
 そう言ってため息を吐く。
 2人の表情が夕日に照らされたように赤くなる。
「あの子を呼ぶってことは依頼かい?」
「はいっ」
 冷たい男は、頷く。
「私じゃダメなのかい?」
「おばさんだと高くてオレらじゃ払えない」
「なるほど」
 おばさんは、人差し指をくるっと回す。
 天井から何かが落下する激しい音がした。
 そしてそのままズリズリと引き摺られ、再びバウンドしながら落下してくる音が響く。
 それに合わせて小さな悲鳴が飛んでくる。
 冷たい男も少女、そして子狸は若干怯えた表情を浮かべる。
「今来るから待っててね」
 おばさんは、にこやかに言う。

 ぐうっつ。

 奥から唸るような呻き声が聞こえる。
 そして叩きつけるように走ってくる音。
「お母さん!何するんですか!」
 長い髪を乱雑に飛び散らした花柄のタンクトップとショートパンツを履いたスタイルの良い背の高い女性が切長の目を吊り上げて怒りの声を上げる。
「もう少ししたら起きるって何度言ったじゃ・・い・で・・す・・か・・」
 ダムの栓が締められるかのように女性の声が尻すぼみになる。
 釣り上がった目が重しを乗せられたように下がり、白い頬が青ざめていく。
「おっおはようございますチーズ先輩」
 冷たい男の頭を羽交い締めするように抱えて少女は小さな声で挨拶する。先ほどとは違う意味で頬を赤らめて目を逸らす。
 子狸は、少女の後ろに隠されて見ることが出来ず、おばさんは、大きな大きなため息を吐いた。
 女性は、あらぬ方向に飛んでいる長い髪を触り、霰もない自分の姿を見て・・・絶叫してその場を走り去っていった。

 外観の西洋風な造りからは似つかわしくないお座敷に2人と1匹は通される。
 新茶のような鮮やかな緑色の畳に大木を兜割して造られた漆塗りの黒いテーブル、床の間の掛け軸にはなぜかフランス王朝の貴婦人のようなドレスを着た女性が描かれており、その下には秋桜や金木犀、ダリア、月下美人が自由奔放に、しかし美しく生けられていた。

(まあ、この人は月下美人と言うよりは大和撫子だよな)

長い黒髪を丁寧に櫛とスプレーで肩まで流し、リボンの付いたブラウスと細身のデニムで身なりを整え、神業としか思えないメイクを施したチーズ先輩は、流水のせせらぎのような綺麗な動作で彼と少女、そして子狸の前にお茶とお茶請けを置いた。
 少女には熱い焙じ茶を、冷たい男にはマグマのように茹だった焙じ茶を、子狸には冷たい麦茶を。そしてお茶請けは2人と1匹共に鮮やかな茶色に煮詰まれた栗の渋皮煮が置かれた。
 そして自分の前にも焙じ茶と栗の渋皮煮を置く。
 なぜか渋皮煮の上に大量のパルメザンチーズが掛かっている。
「これは先日、私が狩ってきたものを母が煮詰めてくれたものです。醤油ベースですがとても甘く仕上がってます」
 先程の動揺なんてどこへやら努めて冷静に、柔らかくもきちっとした口調でチーズ先輩は言う。
 口に出された文字の漢字なんて見れるはずがないのに妙に不思議な漢字に変換された気がする。
「先輩・・・買ってきたんですよね?」
 少女は、恐る恐る訊く。
「ええっ狩ってきました」
 少女の言葉の漢字など見えないチーズ先輩は平静に答える。
 もう、この質問は止めよう、と少女は思った。
「それで私に何か用事でしょうか?」
 無駄な話しはせず、用件だけをきっちり聞いてくる。
 昔から変わらないな、と冷たい男は苦笑する。
「この子が古の葉っていうのを無くしてしまったというので一緒に探して欲しいんです」
 そう言って無邪気に渋皮煮を頬張る子狸の頭を手袋越しに撫でる。
 チーズ先輩の切長の目が細まる。
「古の葉ということは迷い家ですね?また、随分と大変なものを無くされましたね」
 子狸は、渋皮煮を飲み込むとチーズ先輩の顔をじっと見る。
「お姉ちゃんも魔女なの?」
 子狸の質問にチーズ先輩は、小さく首を振る。
「真似事は出来ますが魔女ではありません。しがない大学生です」
 そう言って自分の分の焙じ茶を啜る。
「チーズ先輩は、小学校の先生を目指してるんだよ。確か今、君の小学校で実習してるはずだよ」
「・・・貴方は日向小学校の生徒なのですか?」
 子狸は、小さく頷く。
「そうですか。何年生ですか?」
 問題を答えを求める教師のような口調で言う。
 その口調に子狸は、学校を思い出して小さく震えてしまう。
「一年生・・・」
 子狸は、小さな声で言う。
「そうですか。私は四年生のクラスで実習をしています。その内お会いするかもしれませんね」
 そう言って形の良い唇に笑みを浮かべる。
 その笑顔に子狸と冷たい男の心と表情が温まる。
 少女は、冷たい男の表情が和んだことを見逃さずに脇腹に肘鉄を入れた。
 冷たい男は、小さく呻いて疼くまる。
「それにこの子。学童にも通ってるんですよ」
 肘鉄のことなどなかったかのように少女は言う。
「それでは完璧な私たちの後輩たちと言うことですね」
 チーズ先輩も学童出身者だった。
「それではなんとかしましょう」
 居住まいを正してチーズ先輩は言うと少女の方を向く。
「貴方にはチーズたっぷりのカルボナーラを作ってもらいます」
「一食ですか?」
「いえ、今回の依頼だと1週間に一度を1ヶ月ほどでしょうか。中々難しい依頼なので」
「分かりました」
 少女は、了承する。
 子狸は、意味が分からず目を垂らす。
 しかし、次の白羽の矢はその子狸だった。
「貴方は願いの主になるので少し大変です。貴方には1年程、私の使い魔になってもらいます」
「えっ?」
「使い魔といっても私は魔女ではないので危険な依頼はないので安心してください。基本は放課後に仕事をお願いしますし、学校や学童のイベントがある時はそちらを優先してください」
 まるでバイトのシフトを説明する雇い主のような口調で言う。
 子狸は、本当に意味が分からず口を半開きにする。
 その様子に気づいた少女は、優しく子狸の頭を撫でる。
「魔女の報酬よ。願いを叶えてもらう対価」
「先輩は魔女じゃないからまだ安い方だよ。おばさんだったらそれこそ払い切れるかどうか・・・」
 冷たい男は、思わず身体を震わせる。
 そして最後にチーズ先輩の視線が冷たい男を見る。
「貴方から報酬は貰いません」
 少女と子狸は驚く。
 そう言われた当の冷たい男も驚く。
「その変わりに私の手伝いをしてもらいます。それ次第では2人の報酬も少し安くなると思います。いいですか?」
 お願いしている割には有無を言わさぬ強い口調。
 冷たい男は、思わず頷いた。

「無くしたのはこの辺りですか?」
 チーズ先輩の問いに再び少女の手提げ鞄に入った子狸が自信なさげに頷く。
「多分、最後にポケットの中を確認したのがこの辺りだったの気がする」
 チーズ先輩と子狸、そして冷たい男と少女がいるのは日向小学校から数十メートル離れたところの公道である。昔は農道として使われ、農作物を積んだトラクターや田植え機などが入っていた砂利道だったが冷たい男たちが小学校に入学した頃にはしっかりと整備されて、自家用車や自転車等の往来も増えた。
 その為に登校下校する時はふざけることなく買えるように言っていたのだが・・・。
「つまり学童までの帰り道で友達とふざけて遊んでいる時に無くしたと・・・」
 切長の目を光らせてチーズ先輩は子狸を睨む。
 子狸は、手提げ鞄の中で小さくなる。
「これを教訓に今後はふざけずに真っ直ぐ帰りなさい」
 実習生とは思えない迫力に怒られていない冷たい男と少女「はいっ」と返事する。
 チーズ先輩は、腰に下げたポーチのチャックを開くと中からちいさな小瓶を取り出す。
 おおきな街のショッピングモールに入っている黄色い雑貨屋さんに売っているような某猫キャラの顔の形をしたピンクの小瓶だ。
 少女は、思わず目を細める。
「本当にチーズ先輩ってイメージのギャップが激しいですよね」
「それは貴方たちの勝手な妄想です」
 そう言いながら少し頬を赤らめるチーズ先輩に少女はバレないように小さく笑う。
 チーズ先輩は、某猫キャラの小瓶を冷たい男に差し出す。
 冷たい男は、小瓶を受け取る。
 小瓶の中には何も入っていなかった。
「この中には私の調合した薬品が入っています。本来は液体なのですがどうしても気体にしかならないのです」
「はあっ」
 冷たい男は、小瓶の中をじっと見る。
 確かによく見ると陽炎のようなモヤが見えるような
 ・・・。
「これを貴方に液体にして欲しいのです」
「なるほど」
 冷たい男は、納得すると手袋を口で咥えて外し、そっと指先を小瓶に付ける。
 小瓶の表面に一瞬で氷の膜が張り、中に液体が現れる。
「冷たいですよ」
 そう言って小瓶をチーズ先輩に返す。
 受け取ったチーズ先輩は、あまりの冷たさに身体を震わせ、表情を融解させるも、直ぐに引き締めて小瓶の蓋を開けて地面に置く。
 そして自らも跪き、口元に指を当てて何かを唱えた。
 小瓶の表面に張った氷が溶け、液体が溢れ出す。
 溢れ出た液体は、地面に流れることなく、スライムのように蠢いたかと思うとスライスチーズのように幾重にも枝分かれしていき、まるでイソギンチャクのように変化する。無数に分かれた液体の触手の先端は矢印のようになっていた。
「いけ!」
 チーズ先輩が言うと液体の触手は四方八方にその身体を伸ばす。公道を走り、木々の中に入り込み、下水の中に突っ込んでいく。
 その間もチーズ先輩は、ずっと何かを唱えていた。
 冷たい男と少女は、じっとその様子を見守っていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
 子狸が少女に話しかける。
「なあに?」
 少女は、優しく微笑む。
「お姉ちゃんは何で自分を助けてくれるの?」
 質問の意味が分からず少女は怪訝な表情を浮かべる。
「貴方がお家に帰れなくて困ってたからよ?」
「でも、お姉ちゃんって普通の人間なんだよね?」
「・・まあ、普通かどうかは分からないけど人間よ?」
「自分達って御使なんて格好良く言ってるけど人間に言わせれば妖怪の類だよ?あのお姉さんとお兄さんならなんとなく分かるんだけどお姉ちゃんはなんで?」
 少女は、きょとんっとした。
 そんなこと考えてもいなかったという風に。
 少女は、うーんっと唸って必死に考える。困っているから手助けする以外のことって果たして何なのか・・・?
 そして少女は、一つのことを思いつく。いや、思い出す。
「私もね。貴方くらいの時に物を無くしたことがあるの。いや、正確に隠されたかな」
「えっ?」
 子狸は、丸い目を大きく開く、
「私ね。この町の葬儀会社の一人娘なの。町のみんなも学校の友達も大半の人はそんなこと気にしていなかったんだけど、中には気持ち悪いって言って虐めてくる子もいたのよ」
 その頃を思い出し少女は、悲しげに笑う。
「その時もちょうど学童に帰る時でね。まだ一年生だったから道に迷わないようにって緊張しながら歩いてたの。そのせいで気づかなかったのね。突然、ランドセル越しに蹴りを入れられて地面に転んだの。ランドセルの中身が勢いで飛び散ったの。見たらいつも揶揄ってきた男の子たちでね。私が痛みで呻いてる隙にお気に入りの筆箱を持って走って逃げてったのよ」
「ひどい」
 人間の姿に化けてきたらきっと泣きそうな表情を浮かべていたことだろう、子狸は苦しそうに言う。
「本当、子どもって無邪気よね。何が悪いかなんで分からないんだから」
 少女も苦笑する。
「急いで散らばった荷物をランドセルに詰め込んで私は苛めっ子たちを追いかけたわ。でもあいつら足が速くて捕まらなかったの。私は途方に暮れて地面に座り込んで泣いちゃったの」

 あの時は本当に辛かった。
 子どもだったから何が原因なのかも分からない。
 なぜ、自分がこんな目に合わないといけなあのかも分からない。
 立ち向かおうにも1人じゃ怖い。
 でも、助けを求めてまた虐められるのも怖い。

 どうしたらいいか分からない!

 小さな少女は、泣くことしか出来なかった。

 そんな少女に光りが差したのはその直後だった。

 これ君の?

「ある男の子がね。私の筆箱を持ってきてくれたの」
「えっ?」
「同じ学童の一年生の男の子だったの。顔や腕に擦り傷を作って一生懸命探して見つけてきてくれたの。」

 その時の彼の優しい笑顔を今でも覚えている。
 氷のように冷えた筆箱とは対照的なお日様のような温かい笑顔。
 私の暗くなった心を芯から温めてくれるような笑顔を。

「だからね。私もあの男の子のように困っている人がいたら助けられるような人間になりたいって思ったのよ」
 そう言ってにっこりと微笑む。
 子狸の大きな瞳が満月のように揺れる。
「その男の子は今はどうしてるの?」
 子狸に聞かれ、少女はチラリと冷たい男を見る。
 冷たい男は、座り込んで魔法に集中しているチーズ先輩を見守るように見ていた。
「元気にしてるよ」
 そう言ってにこりっと微笑む。

「見つかりました」

 チーズ先輩は、右手を真っ直ぐに伸ばす。
 液体の触手がメジャーのように素早く瓶の中に戻っていく。
 その内の一本が小さな葉っぱをくっつけていた。
 液体の触手は、チーズ先輩の手に葉っぱを持たせるとそのまま瓶の中へと入っていった。

 チーズ先輩は、手に収まった葉っぱを見て立ち上がると逆の手で汗を拭う。そして、ゆっくりとした足取りで少女の方に向かって歩いてくると手提げ鞄の中にいる子狸に葉っぱを、古の葉を渡す。
「もうふざけて無くしてはいけませんよ」
 子狸は、戻ってきた茶色い葉っぱをみて満面の笑みを浮かべ、「ありがとう先生!」と大きな声でお礼を言った。
「まだ早いです」
 チーズ先輩は、照れ臭そうに笑う。
 冷たい男と少女は、可笑しそうに笑った。

 漫画のように古の葉を頭に乗っけて「おいでませ」と唱えると"迷い家"は直ぐに現れた。
 まるで最初からそこあったかのように不自然さも感じさせずに。
「お蕎麦屋さんだ」
 少女は、口を丸く開けて呟く。
 現れた迷い家は、時代劇に現れるような古い佇まいの大きな暖簾の下がった日本家屋の蕎麦屋だった。
「迷い家は住んでる人のイメージでその姿を変えるみたいですからね」
 チーズ先輩は、興味深げに迷い家を見る。
 魔女の家系でも迷い家は中々に見れるものではないらしい。
「今の家主が求める家の形がこれなのでしょう」
 引き戸が開き、暖簾が捲れ上がる。
 現れたのは冷たい男の背丈を超えた熊のような体型をした2頭の狸だった。

「お父さん!お母さん!」

 子狸が手提げ鞄から飛び出し、狸に飛びついた。
「お帰りなさい」
 熊のような見かけからは想像も出来ないような優しく高い声で飛びついてきた子狸を抱きしめる。
 どうやらこちらが母狸のようだ。
「帰りが遅いから心配してたんだぞ」
 テノールのような低い声で子狸を怒るもその頭を柔らかく撫でるのは父狸だ。
 その光景を3人は微笑ましく見ていた。
 父狸は、子狸から手を離すと3人の方を向き直る。
「貴方がたは?」
 父狸に聞かれ、冷たい男は事のあらましを説明する。
 顔色こそ分からないが話しを聞いているうちに父狸と母狸の顔つきが変わっていくのが分かる。
 そして最後まで話しを終えると大慌てで頭を何度も下げた。
「うちの娘が大変なご迷惑を!」
「古の葉を失くした上に魔女様に探してもらうなんて・・・」
 いえ、魔女ではありません、とチーズ先輩が言うも聞いてない。
「対価は必ず娘にお支払いさせます!」
「毎年、年越し蕎麦を届けさせていただきます!」
 父狸と母狸の平身低頭に舌を巻きつつも3人には1つの疑問が浮かんだ。

「娘?」

 冷たい男が疑問を口に出す。
 冷たい男の疑問符に今度は父狸と母狸が首を傾ける。
「はいっ娘ですが何か?」
 子狸も冷たい男の意味が分からず、首を横に傾ける。

 そう言われてみれば確かにこの子は一度も自分が男とも"僕"とも"俺"とも言ってない。
 それに・・・。
「確かに付いて・・・」
 少女が言おうといたのを冷たい男が慌てて制する。
「それでは娘を送っていただき、ありがとうございます」
「お礼とは別に今度、我が家の蕎麦をご馳走様させて頂きます」
「それではここで。失礼します」
 そういうとたぬき親子は暖簾を潜り、引き戸の奥へと入った。
 引き戸が閉まる間際、子狸が手を振っているのが見え、3人も笑顔で手を振り、さようならをした。
 引き戸が閉まると同時に迷い家も消える。
 静寂の闇が辺りを包むこむ。
「無事終わったな!」
 冷たい男は、ぐっと伸びをする。
「本当、良かった」
 少女も嬉しそうに言う。
「でも、楽しかったね」
「そうだな」
「また、会いたいね」
「学童行けば会えるさ」
「そうだね。今度、会ったらもう少し女の子らしい格好を教えないとね」
「そうだな」
 そう言って2人は笑い合う。
 チーズ先輩は、そんな2人のやり取りを横目で見ながらスマホを見る。
「チーズ先輩も今日はありがとうございました」
「ありがとうございました」
 冷たい男と少女は、深々と頭を下げる。
「さっそく明日、カルボナーラを作りに行きますね」
「・・・チーズたっぷりでお願いします」
「はいっ!」
 少女は、嬉しそうに返事する。
「それよりもお母さんから夕食を食べていかないかと連絡がありましたがいかがですか?」
 さすが魔女。事が済んだのが分かって送ってきたのだ。
「今日はチーズと栗がたっぷりのグラタンとキッシュだそうです」
「どんだけ栗があるんですか?」
 冷たい男が呆れたように言う。
「狩り過ぎました」
 少し恥ずかしそうに頬を赤らめるチーズ先輩。
「どうされますか?」

「「いただきます」」

 息ぴったりに言って両手を合わせる。

 3人は、街灯の弱い公道を並んで歩く。
 少女は、隣を歩く冷たい男の横顔をチラリと見る。

『これ君の⁉︎』

 傷だらけになりながら筆箱を持ってきてくれた男の子の顔と冷たい男の顔が重なる。

 少女は、にこっと微笑んで手を伸ばすと、そっと手袋に包まれた冷たい男を握った。
 冷たい男は、一瞬驚いた顔をするもそっと握り返した。

 冷たい。

 しかし、ほんのりと温かい。

 夜空に浮かぶ月が優しく2人を照らし続けた。

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