看取り人 エピソード5 失恋(9)
白髪の男の窪んだ目が大きく見開く。
「何故……そう思うんだい?」
「先輩の話しから繋げました」
看取り人は、抑揚のない声で淡々と答える。
救急車で白髪の男が運ばれるの時、先輩は泣きながら話しかけた。
"お手紙渡すんでしょ?"
"お子さんに会うんでしょ?"
"おじさんは悪くない!自分を責めないで!"
矢継ぎ早に飛び出す言葉。
一つ一つは千切れて、飛んでまるで意味をなさないが、それらをパズルのように繋ぎ合わせた結果。一つの仮説が生まれた。
そして……。
「これです」
看取り人が取り出したのは一枚の封筒。
男が手紙を書いていたバインダーに挟まっていた封筒だった。
「この封筒に書かれている住所……先輩の自宅付近を書いてあります。細かい住所までは覚えてないので推測でしかありませんが、もし僕の仮説があってるなら……」
この男は、先輩の父親なのではないか……と。
白髪の男は、横目でじっと見る。
看取り人も三白眼をきつく細めてじっと見る。
「君は頭がいいんだね」
白髪の男は、感心したように呟き、苦しげに息を飲み込む。
「あの子はまるで気がついてなかったのに」
「当事者と言うのはそんなものです。普段はとても敏感なのに自分のことになったら途端に鈍感になる」
「君みたいに?」
看取り人は、眉を顰めて首を傾げる。
白髪の男は、苦笑し、天井を見上げる。
「君の問いに答えを出すなら"どちらともいえない"だよ」
「……何故です?」
「あの時、彼女……あの子の母親は不特定多数の男と関係を持っていた。僕と寝た次の日にはきっと違う男と寝ていただろう。DNA鑑定でもしない限り僕があの子の父親であると証明出来ない」
白髪の男は、ふうっと鼻息を吐く。
鼻に繋いだ酸素チューブが逆流し、一瞬でも曇る。
看取り人は、三白眼を固く細める。
「では何故?」
「理屈じゃないんだよ」
白髪の男は、苦しげに息を吐きながら節目だらけの天井を見る。
「あの女が逮捕されたとネットニュースで見た時、僕は普通の会社員だった。あれだけモテなかったのに将来を誓う女性がいて、近々、海外転勤も決まって、出世だって約束されたようなものだった。順風満帆。絵に描いたような幸せさ。そんな時、スマホにあの女が逮捕されたニュースが飛んできた。それだけでも驚きなのにあの女には八歳の子どもがいて、育児放棄をして、挙句の果てに殺そうとまでした。僕が幸せを感じ生活している後ろで……僕の子どもがとんでもない不幸な目にあっていた……」
白髪の男の顔から笑みが消える。
乾いた唇を噛み締め、薄い血が流れる。
「許せる……はずがない。自分を……自分の罪を」
白髪の男は苦しげに呻く。
看取り人は、何も言わずにじっと見る。
「僕は、海外への転勤を断り、彼女と婚約者と別れた。そして全ての人生を僕が不幸にした子どもに捧げると誓った。でも、僕は子どもに会うことが出来なかった。許されなかった。性別すらも教えてもらえなかった。子どもに会うどころか知ることすら許されない。それが僕の罪の償いだと言わんばかりに」
それからの白髪の男の人生は抜け殻のようであった。
子どもを知ることも、会うことも、愛することも許されない、ただただ罪を償うだけの日々。
砂を泳ぐように仕事をし、砂を噛むように食事をし、砂に埋まるように眠った。
達成感も幸福感もない。
ただただ虚に、ただだ苦痛に生きるだけの日々。
そんな中、罪に抵抗するように見つけたのが手紙を書くこと。
知ることも会うことも愛することも許されない子どもに謝罪と愛の言葉を文字にして送ることが出来れば……。
なのにその言葉すら出てこない。
心の中の想いを言葉として書き写すことも出来ない。
男は泣いた。泣いて……泣いて……いつしか病気になり、命すらも尽きようとしていた。
白髪の男は、絶望に包まれながら病に侵された身体を引き攣り、公園のベンチに向かって……。
「あの子に会った」
自分がいつも座っているペンチで泣きじゃくる彼女。
周りの人たちは泣きじゃくる彼女を見てどう接したらいいか困りあぐねていた。
白髪の男自身もそうだった。
もう時間がないのに邪魔するな、と怒りすら沸いた。
しかし、泣きじゃくる彼女の切長の右目と横顔見た瞬間、熱が弾けた。
その顔は、あの女の顔と似ていたから……。
子ども……僕の……子どもだ!
「それからは君の知っている通りさ」
男は、苦しげに呻きながらも小さく笑う。
顔色が悪い。
呼吸も粗くなり、目の光が弱くなっている。
看取り人は、三白眼をきつく細める。
「僕は、あの子に話しかけ、話しを聞き、一緒に手紙を書き、そして……ようやく手紙を書くことが出来たんだ」
白髪の男は、胸元に手を置き、力なく握りしめる。
「罪が……償われたと言うことですか?」
看取り人は、抑揚のない声でぽそりっと言う。
白髪の男は、痛々しく首を横に振る。
「違う……これもまた罪だよ」
男は、笑う。
両目から涙を流しながら。
「もし……罪が許されているなら……僕はあの子に父親だと名乗ることが出来ていたはずだ。それが出来ないのは僕が許されてない証拠だよ」
白髪の男の涙が白いシーツを灰色に染める。
呼吸が小さく、激しく揺らぐ。
「僕の書いた手紙は……あるかい?」
「はいっ」
看取り人は、バインダーを持ち上げる。
インクが滲み、震え、殴るように書かれた文字の書かれた便箋が挟まれている。
「あの子は……便箋の内容を読んだのかな?」
「分かりません」
看取り人は、小さく首を横に振る。
「読むという行為をするにはこの字はあまりにも難解ですからね。僕にもただインクを叩きつけているようにしか見えない」
「辛辣だなあ」
白髪の男は、涙に濡れた顔で笑う。
「これでも魂を込めて書いたんだよ」
「すいません」
看取り人は、素直に謝る。
「いいさ。読めてないなら……それでいい」
白髪の男の顔が真顔になる。
「その手紙は封筒に入れて僕の棺に入れてくれ。決して誰にも読まれないように固く封をして」
「だから、誰も読めませんって……でもいいんですか?渡さなくて?」
「さっきも言ったろう?もう言いたいことは伝えられたって。思い残すことはないって。それにその手紙は見たことない僕の子どもに当てたもの。あの子に……当てたものじゃない」
白髪の男は、細く、白い指先で涙を拭う。
「あの子の幸せに僕は必要ない。ただ人生の中の通り過ぎた1ページになればそれでいい。あの子の記憶の片隅にでも残ればそれで満足だよ」
「きっと残ります」
「ありがとう」
白髪の男は嬉しそうに力なく笑う。
「あの子は大丈夫かな?優しい子だからね。僕が死んだと聞いたらショックを受けてまた泣いてしまうんじゃ……」
「大丈夫ですよ」
看取り人の抑揚のない、しかしはっきりとした言葉で言う。
「先輩は……強い人です。とても……とても強い人です。普通の人には……僕なんかには乗り越えることも出来ないような辛い運命も必死に乗り越え、立ち上がれる人です。先輩は……誰よりも凄い人です」
看取り人の言葉に白髪の男の窪んだ目が大きく見開かれ、血の乾いた唇が震える。
「それでも……」
白髪の口から苦しげに声が溢れる。
「それでも……彼女が打ちのめされたら……絶望に叩き落とされたら……どうする?」
白髪の男は、縋るように看取り人に訊く。
看取り人は、三白眼を細め、小さく息を吐く。
「その時は僕が支えます。当たり前じゃないですか」
何を言ってるんだ、とばかりに看取り人は言う。
「だから何も心配はいりません。安心して……旅立ってください」
白髪の男の目から再び涙が流れる。
しかし、それは先ほどの涙とは意味が異なるものだった。
「ありがとう」
白髪の男は笑った。
心の底から嬉しそうに笑った。
「君に看取ってもらえて良かったと……今心の底から思えたよ」
「そうですか」
看取り人は、抑揚のない声で興味なさそうに呟く。
白髪の男は、小さく笑う。
「それじゃあ……僕が旅立つまで付き合ってもらおうかな。いつになるかは分からないけど……そんなには長くないと思う」
「はいっ」
看取り人は、小さく頷く。
「最後まで……お付き合いします」
それから雨の音が響く中、二人はずっと話し続けた。
白髪の男が聞いてきたのはもっぱら先輩と看取り人と出会ってから今までの話しだ。自分の知らない先輩の様子をこれでもかと聞いてきて、看取り人は真摯にそれに答えた。
そして雨が上がり、重い雲の隙間から伸びた日差しが居室の中に差し込み出した頃、会話は途切れた。
白髪の男は、満足した表情で目を閉じ、深い深い、永遠の眠りについた。
看取り人は、三白眼を閉じ、祈るように呟く。
「どうぞ安らかに。ご冥福をお祈りいたします」