看取り人 エピソード4 ただ出会い、しばし別れる
暗く沈んだ静寂の中をパソコンのキーボードを叩く音が駆ける。
エアコンで冷え切った空気、薬品と体臭の混じった臭い、視界の端に見えるゆっくりと落ちる点滴、そしてキーボードの音の隙間から聞こえる微弱な呼吸する音……。
看取り人は、キーボードを叩く度に走っていく文字の羅列を追いながら神経を部屋の中の隅から隅まで張り巡らせた。
ここはホスピス。
末期の癌や難病により死を間近に迎えた人が死を迎える場所。
そこには治療はない。
苦痛もない。
ただただ、穏やかに安らかに最後を迎えるための場所。
その場所で看取り人は静かに膝の上に置いたパソコンに向き合い、キーボードを叩いていた。
彼の目の前に一人の男が横たわっている。
年齢は六十を少し過ぎたくらいだろうか?掛け布団に包まれていても大きく、逞しい身体であったことが分かる。頭髪は今までの闘病によりほとんどが抜け落ち、眉もなく、髭も胡麻粒程度しかない。
目は虚に節だらけの白い天井を見つめ、鼻は酸素のチューブが繋がれ、呼吸を手助けしている。左腕に刺さった点滴はゆっくりと落ちているものの彼の身体がもう受け付けないのか?減った様子もなく、身体の中に入っているようにも見えなかった。
"枯れてくる"
看取り人の脳裏に少し前にここで働く赤く髪を染めた初老の看護師から聞いた言葉が過ぎる。
人の身体も植物と一緒で枯れてくる。
水分も、食事も受け付けなくなり、口から入れようとも点滴をしようとも蓋が閉じられたように入っていかず、少しずつ弱っていき、最後に向かっていく、と、
その言葉は正しい。
目の前に横たわる男は確かに弱ってきている。
逞しい身体からは生気を感じられず、目には力がない。
何よりこれから旅立つ人のみから漂う匂い……看取り人が"蜘蛛の糸"と呼ぶ匂いが流れていた。
男は、もうすぐ旅立つ。
看取り人は、パコソンから手を離し、ポケットからスマホを取り出すと、登録した電話番号を表示し、いつでも掛けられるようにする。
男が旅立ちを迎える直前まで付き添う。
そして旅立ちを迎える前に連絡する。
それが今回の彼への依頼だった。
それは今から二時間前のこと……。
「彼女が休んでいる間だけ見てて欲しいの」
ホスピスの所長は、大きな目を看取り人に向けて言う。
看取り人は、目の前に置かれた氷の浮かぶ麦茶、よく冷えた海月のような葛まんじゅう、そして所長と順に目を送る。
所長が突然、自分を呼ぶことなんて珍しくはない。
むしろ"予定された死"の方がごく僅かで、大概はこのように突然、スマホが鳴って呼び出されることの方が多い。
しかし、看取り人が慌てることはない。
冷徹に仕事の依頼を受け、冷静にホスピスに足を運び、淡々と与えられた短い資料と所長の説明を聞いて、看取るべき人の元へと向かう。
それ程に看取り人にとって旅立つ相手を"看取る"と言う行為は身体にも生活にも沁み込んだ行為であった。
そんな彼にとっても今回の所長の言葉は少し意表を突かれたものだった。
「見てるだけ……ですか?」
看取るのではなく?
看取り人の質問に所長は小さく頷く。
「そう。今回の貴方への依頼は看取る対象の依頼主……彼の奥様が離れる間だけ見ていて欲しいの。そしてもし、彼が旅立ちそうになったら彼女に連絡して呼んで欲しいのよ」
看取り人の三白眼がきゅっと細まる。
「それは……その奥さんが旦那さんの側にいるのを拒否されているんですか?」
看取り人は、抑揚のない声で言う。
「そして別れの時が来たら呼んで欲しい……そう言うことですか?」
冷徹に、冷静に発せられる看取り人の声は小さな棘のようなものが刺さっていた。
普通なら気づかずに流してしまうようなものだが、付き合いの長い所長はそんな看取り人の僅かな変化に気づいて苦笑し、首を横に振る。
「違うわ。むしろ奥様はずっと旦那様に付き添っていることを望んでいる」
看取り人は、三白眼をさらにきつく細める。
「では……何故……」
「簡単な話しよ」
所長は、湯呑みを取って麦茶を小さく啜る。
「体力の限界」
所長の言葉に看取り人は大きく目を開ける。
「最後を迎える時、痛みや苦しみ、そして力を使い果たすのは旅立つ当人だけではないの。見送る側もまた同じくらいの痛みや苦しみ、そして力を使うの。ある意味では旅立つ側以上の力を……ね」
所長は、湯呑みを置くと看取り人に見えるように置いた薄い資料を開く。
「奥様もまたその一人。私達では考えられない力を使って最後の時を迎えようとしてるの」
看取り人は、所長の開いた資料に目を落として、そこに書かれた文字を拾っていく。
脳腫瘍。
ステージⅣ
手術不可。
左半身麻痺。
要介護5。
寝たきり状態。
抗がん剤と放射線治療。
そして二年間の自宅での介護。
読むだけで針と刃蝕まれるような痛みを伴う言葉を看取り人は表情を変えずに平静に読み上げる。
「お二人のお子さんたちや親戚、旦那様のケアマネジャーからも何度も自宅での介護は無理なんじゃないかと言われたそうよ」
所長は、看取り人が読み終わったことを察したように言葉を紡ぐ。
「それでも奥様は止めなかった。最後まで旦那様を自宅で看取る、そう言って懸命に、懸命に介護を続けたそうよ」
そう言って所長は、麦茶を啜る。
「それじゃあなんでホスピスに?」
そこまでの意地と矜持、そして献身的な想いを持って行っていたのに最後の最後で何故……。
「旦那様の意思よ」
所長の言葉に看取り人の目が大きく開く。
「お前は介護が下手だ。お前なんかに手を出されたら俺は安らかに逝けない、そう言って自らケアマネジャーに相談してホスピスに申し込んだの」
「それって……」
「ええっ」
所長は、湯呑みから口を離す。
「きっと見るからに疲弊していく奥様を見兼ねての旦那様の優しさでしょうね。もう自分のことは気にしなくていい。楽になって欲しいと言うね」
所長は、目をうっすらと開ける。
「奥様もそれが分かって、苦しみ、悩みながらもホスピスの入居を承諾されたの。そして二日前……こちらに入居された」
看取り人は、資料に目を通す。
簡潔で淡白な資料の奥に書かれた男の想いを読み取ろうとする。
「旦那様がホスピスに入居された瞬間、奥様は糸が切れたように倒れ込んでしまったそうよ」
看取り人の三白眼が大きく見開く。
「きっと張り詰めた緊張の糸が切れてしまったのね。二年間の心身の疲労と疲弊が一気に流れ込んできたのだから当然だわ」
所長は、目を細めて底の見える湯呑みに目を落とす。
「それでも奥様は譫言のように旦那様のことを口にされている。最後の時に立ち会いたい思っているわ」
所長は、看取り人に目を向ける。
「だから貴方には見ていて欲しいの。いつ旅立つか分からない旦那様を見て、そして奥様に知らせて欲しいの。二人が最後の最後に会えるように。二人が納得のいく看取りが出来るように……ね」
看取り人は、小さく頷いた。
「…………」
男の口が小さく開き、苦鳴のような呼吸と共に声が漏れる。
看取り人は、三白眼をきゅっと細める。
虚に天井を見上げていた男の目が視線だけを看取り人に向ける。
「……ぅうぅあ……」
声にならない声が掠れるように漏れる。
何かを喋ろうとしている。
看取り人は、スマホを膝の上に置き、男を見る。
「奥様ならご自宅で休んでおられます。ご安心ください」
看取り人は、抑揚のない声で言う。
「奥様のこと……ご心配ですか?」
看取り人が言うと男は目を小さく細まる。
肯定……ということのようだ。
「少しお疲れになっただけです。休んだら元気になってここにいらっしゃいます」
それは半分本当で半分嘘だ。
妻は、疲れに疲れの果てに身体を休めている。しかし、来るのは男が旅立つその直前、看取り人が呼ばない限り、来ることはないのだ。
男は、じっと看取り人を見る。
看取り人は、何故、男がじっと自分を見ているのか、と訝しみ、そして気付く。
「自己紹介が遅れました。僕は看取り人です。貴方と最後の時を過ごすために参りました」
看取り人の突然の自己紹介に男は目を大きく見開く。
「と、いっても僕は最後までいません。あくまでお休みの奥様の代理です。なので安心してください」
何が安心なのだろう?
喋れれば男はそう突っ込みたそうに看取り人を凝視する。
「僕では不満でしょうが、奥様が来られるまで我慢してください」
看取り人が抑揚のない声で言う。
男は、看取り人をじっと横目で見て……固く、小さく首を横に動かした。
それに気づいた看取り人は三白眼をぎゅっと細めて男を見る。
「……奥様に来て欲しくないんですか?」
看取り人が抑揚のない声で聞くと、男は呻くような声を上げながら小さく頷く。
「何故ですか?」
男は、もう喋ることは出来ない。
ホスピスに来てから頭に巣食ったがん細胞は、最後の悪あがきと言わんばかりに彼から全ての言語を奪い、衰弱を通り越した身体が声を出すことを許さなかったから。
しかし、男の目は看取り人に何かを話していた。
「嫌いだから?」
「……っぅ」
男は、苦しげに呻く。
違うと言う意味だと看取り人は勝手に解釈した。
「うるさいから?」
「……」
違うようだ。
「うざいから?」
「……」
「一人でいたいから?」
「……」
「……好きだから?」
男の目が大きく見開く。
正解だ、と看取り人は三白眼を小さく細める。
「奥様が好きだから……愛しているから来て欲しくない……そう言うことですか?」
男の首がぎこちなく、油の切れたゼンマイのように看取り人の方を向く。
虚だった目に小さな熱が灯っている。
「……勝手に喋ってもいいですか?」
看取り人が訊くと男は小さく、痛々しく頷く。
「貴方は、奥様が好きだから来て欲しくない。それは……自分の今の姿を見て欲しくないからですか?」
男は、視線を横に動かす。
「迷惑をかけるからですか?」
男は、瞬きする。
肯定だ。
「何故、迷惑をかけると?奥様は貴方の側にいたいと思ってるのに」
男の目は少し動かない。
考えているのか?それとも答える返答が浮かばないのか?
「貴方の介護が大変だから……ですか?」
男は、小さく瞬きする。
「それなら心配ありません。このホスピスのヘルパーさんも看護師さんも優秀です。奥様が手を出さなくて全てやってくれます。負担なんてほとんどありません」
しかし、看取り人の言葉に男は反応しない。
ただ、まっすぐ前を見ているだけだ。
「……奥様が任せられずに手を出してしまうから?」
男は、反応しない。
看取り人は、三白眼を閉じ、言葉を探す。
自分の言葉ではない。
彼の言葉を。
彼が心に思いながらも伝えることの出来ない言葉を。
そして一つの言葉が浮かぶ。
看取り人は、三白眼を開く。
「どんなに尽くされても、介護されても、想われても結局、自分はいなくなってしまうから……ですか?」
男の目が大きく見開く。
肯定だ。
「何がどうなっても自分はいなくなってしまう。奥様の側からいなくなってしまう。だったら自分になんて構わないで……忘れて好きに生きて欲しい……そう言うことですか?」
看取り人の針のように冷徹で抑揚のない言葉を受け、男は苦しげに瞬きする。
それはまさに看取り人が男の気持ちを全て代弁したことを表していた。
病気に侵され、ほとんどの力を奪われた頭に映像が浮かぶ。
それは若かりし頃の自分と、そして妻の姿だった。
出会ったばかりの大学生の頃。
付き合い始めた初々しく、恥ずかしくなりながらも輝いていた頃。
お互い、社会に出て荒波に揉まれながらも励まし合い、熱くしあっていた頃。
一世一代のプロポーズをし、涙を流しながら承諾してくれた頃。
そしてたくさんの人に祝福された結婚式。
どんなことがあっても苦労をかけない……幸せにすると誓ったのに……。
自分は最後の最後まで迷惑をかけ、彼女を不幸にしてしまった。
俺は……俺は……。
「ひょっとして自分が奥様を不幸にしたとか思ってませんか?」
看取り人の抑揚のない言葉が槍となって男の心に突き刺さる。
男は、目を大きく見開いて看取り人を見る。
看取り人は、三白眼を冷徹に、冷静に細めて男を見据える。
「だとしたら……それは間違っています」
男の衰えた脳が煮えるのを感じた。
それは病気になってからすっかり忘れてしまっていた感情……怒りだ。
男は、力のない目で看取り人を睨む。
乾いた口が小さく歯軋りする。
しかし、看取り人は怯まない。
三白眼をじっと男に向ける。
「……介護は確かに大変です」
看取り人は、抑揚のない声でぽそりっと言う。
「身体的にも精神的にも多大なダメージを与えます。とても一人でなんて出来るものではない。色んな人たちの力を借りてようやく成り立つものだ……と僕は思ってます」
看取り人の言葉。
それは決して何も知らない学生の戯言などではない。
このホスピスという場で何人も何人も見て、看取って肌で感じたことだ。
「だから、ギブアップすることも施設に預けることも決して逃げなのではありません。お互いがお互いの為になるならそれはむしろ良沢だと思います」
看取り人は、三白眼をきゅっと細める。
「でも、奥様は貴方が言うまで決してギブアップも施設に預けるも言わなかった」
そう……言わなかった。
どんなに辛くても、苦しくても彼女は意地を張って決してそれを口にしなかった。
このままでは俺よりも先に死んでしまうのではないかと本当に怖くなるほどに。
俺を看ることが自分の使命でもあるかと勘違いして、自分を痛めに痛めつけていた。
だから、俺はそんな無駄ことから彼女を解放する為にホスピスへの入居を決めた……。
「奥様は意地もはってなければ、見なきゃいけないなんて使命も感じてません」……
この目の前の少年は何者なのだ?
何故、俺が考えていることが分かるのだ?
「奥様が感じてたのは……愛だといます」
看取り人の抑揚のない声から発せられた言葉に男の目が震える。
「貴方と出会ってから結婚するまで、そして今この瞬間まで育まれてきた愛が奥様を動かしたんです」
胸が痛い。
もはや感覚の無くなった肌に熱いものが流れ落ちるのが分かる。
「僕は奥様でないので本当の気持ちは分かりません」
看取り人は、三白眼を閉じ、そして開く。
「でも、もし……貴方も奥様のことを愛しているなら……彼女の最後の望みを叶えてあげてください。言葉に出せなくてもいいんです。奥様への想いと……別れを伝えてください」
男の目から涙が一筋、二筋流れる。
唇が何かを話したそうに震える。
「これは特別なことではありません。ただ出会って恋をした二人がしばし別れる……ただそれだけの話しです」
看取り人の三白眼が微かに……微かに緩んだ。
「だから、貴方も正直に。自分がどうしたのか、何をしたいのか、何を伝えたいのか、後悔がないようにして下さい。どちらにとっても……」
男の唇が小さく開く。
衰えた喉仏が震え、空気と一緒に音が漏れる。
「……たい」
言葉を失った男の口から羽虫の囀りのような声が漏れる。
「……あい……たい」
男は、虚で熱い目を看取り人に向けてそう伝えた……訴えた。
看取り人は、三白眼を閉じてゆっくりと頭を下げる。
そして手に持ったスマホに登録された電話番号を押した。
妻は、直ぐに駆けつけた。
着れるものだけを着て、化粧も髪も梳かさず、走ってはいけないと言われている廊下を走って居室に落ちるように入ってきて、そのまま男の胸に顔を埋めた。
男は、そんな妻の姿を愛しげに見つめていた。
その後、二人がどんな会話をしたか看取り人は知らない。
何も言わずに退出し、そのまま所長室に用意されたシウマイ弁当と冷蔵庫で冷やされた葛まんじゅうを食べて三十分ほど眠った。
そしてし目覚めるとタオルケットをかけようとしてくれていた所長から男が亡くなったことを聞く。
とても穏やかで、綺麗な顔をしていた、と所長は言った。
看取り人は、眠そうに目を擦りながらも平静で冷徹な表情のままその話しを聞いた。
三白眼をゆっくりと閉じて祈るように呟く。
「どうぞ安らかに。ご冥福をお祈りいたします」
看取り人がホスピスを出たのは夜の八時を少し過ぎた頃だった。
まだ暑い。
看取り人は、背中がじんわりと汗が滲みていくのを感じながらスクールバッグを背負い直して帰路に向かう、と。
「……先輩?」
刃で切ったような切長の右目に水色に白い花々の描かれた眼帯を左目に付けた黒髪の少女がホスピスの壁に寄りかかっていた。
少女……先輩は看取り人の声に跳ね返るように反応して振り向くと少し疲れた顔をしながらも嬉しそうに微笑んだ。
「やあ」
先輩は、小さく左手を上げる。
「偶然だね」
「絶対嘘でしょう」
看取り人は、呆れたように三白眼を細める。
「いつから待ってたんですか?」
「……四時間くらいかな?」
先輩は、恥ずかしそうに小さく笑う。
「君がスマホの画面を見ながら急いで歩いていくのを見たので多分、ここかな?って」
「違ったらどうするつもりだったんですか?」
看取り人は、抑揚のない声で言う。
しかし、その声にはほんの僅かに苛立ちが籠っていた。
「朝まで待つつもりだったんですか?」
「まさか……終電には帰るつもりだったよ」
先輩は、そう言って小さく笑う。
「叔母さんに僕を抹殺させる気満々ですね」
看取り人は、小さく肩を竦めると、スクールバッグからスポーツドリンクを取り出して先輩に渡す。
「口付けてないので……」
「大丈夫だよ。ちゃんと水筒に麦茶入ってるから」
「いいから飲んで」
看取り人が三白眼で睨む。
先輩は、仕方なくキャップを開けてスポーツドリンクを口に付け、半分以上飲み干した。
「……美味しい」
「やっぱり脱水しかけてたじゃないですか」
この暑い中、水筒の麦茶だけで足りる訳がない。
そんなこと先輩だって分かってるはずなのに……。
「……なんで待ってたんですか?」
キャップの蓋を締めていた先輩は、看取り人に訊かれて切長の目を丸くし、思い出したようにスクールバッグから綺麗な水色の保冷バッグを差し出す。
「……卵焼き」
先輩は、恥ずかしそうに言う。
看取り人は三白眼を丸くし、保冷バッグを開ける。
作り主と違い、しっかりと暑さ対策をされた保冷バッグからひんやりとした冷気が漏れ、透明な蓋のお弁当箱の中にびっしりと黄色い鮮やかな卵焼きが並んでいた。
「お腹……空いちゃうんじゃないかと思って……」
先輩は、頬を赤く染めて上目遣いに看取り人を見る。
「だったら受付に預けて下さい」
「でも、本当にいるか分からなったし……」
「だったら次の日にして下さい」
「でも、それだと痛んじゃうし……」
先輩は、両手を組んでモジモジさせる。
看取り人は、嘆息する。
先輩は、呆れられたと思い、力なく俯く。
「どんなに痛んだって先輩の卵焼きなら食べますよ」
先輩は、弾かれるように顔を上げる。
看取り人は、保冷パックから弁当箱を取り出し、珍しいくらい乱暴に蓋を開けると、卵焼きを一切れ、指で摘んで口に運んだ。
「……甘い」
ふんだん過ぎるくらいに使われた砂糖の甘みが出汁の染み込んだ卵と絡んで舌を震わせる。
でも……。
「美味しいです」
先輩は、切長の右目を大きく見開く。
「残りは帰って食べます」
そう言って保冷パックに弁当箱をしまう。
「帰りましょう」
「……うんっ」
先輩は、和かに微笑む。
そう言って二人は並んで帰路に着く。
先輩は、嬉しそうにたくさんの言葉を投げかける。
看取り人は、冷徹な表情と抑揚のない声で普通に返す。
看取り人は、ふと思う。
この出会いにもいつか別れが来る。
その時、自分は……先輩はどうするのだろうか?
なんでそんなことを思ったのか自分でもよく分からない。
でも、もしその時が来たら……。
看取り人は、そんなことを考え……止めた。
そんなこと考えても意味がない。
その時が来たらその時、考えればいいのだ。
あの二人のように。
「ただ出会い、しばし別れる……か」
看取り人はぽそりっと言う。
自分で言った言葉なのに妙に口に馴染んだ。
「なに?」
先輩がきょとんとした顔で聞いてくる。
看取り人は三白眼をきゅっと細めて先輩の顔を見る。
「……なんでもありません」
そう言って看取り人は前を歩く。
先輩は、ぷくっと頬を膨らませて何度も何度も声をかける。
看取り人は、そんな先輩を横目で見ながらほんの少し嬉しそうに相槌を返した。
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