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臨床こぼれ話

「死にたい」人との出逢い

私が「死にたい」と言う人に初めて出逢ったのは看護学生のときだから、20年以上前の話です。その人、Yさんは末期の〇〇癌で、がん性疼痛に対しモルヒネを内服していました。何のお仕事をしているか忘れちゃったけど、とてもインテリジェンスの高い方という印象が強く残っています。
ただYさんは看護学生にとって緊張するエピソードを持っていました。
自殺をしようとされたことです。
医師から処方された睡眠剤を数か月こっそりため込み100錠を一気に内服。昏睡しているところ驚いたご家族が救急車を呼び、搬送されたそうです。
すぐ胃洗浄を行い事なきを得ますが、起きたその瞬間「なんで助けた!!」と目の前にいた看護師へ怒鳴ったとか(その看護師さんが私先輩でした)。


「死にたい」?

がんの告知率が上がり始めたとはいえ、この当時(2000年ごろ)はそれでも統計上は50%程度(1990年が16%で、2014年では70%越え)。どんな風な告知だったかは分かりませんが、Yさんにとっては生きる力が消えるような告知だったのではないかと思います。
さらにそんなところに、ノコノコとまだ人生もよく分からない20代前半の、ヘナチョコ・ツッパリ上がりの看護学生が来たのですから、Yさんは内心ため息が出ていたかもしれません。
でもYさんといざ話してみるとまあ穏やかで優しくて。奥さんとも仲良しだし…「死にたい」ってなんで?って思いました。

(2014年2月14日「第42回がん対策推進協議会」資料)



「死にたい」と「死にたいくらい辛い」

もし20数年前の自分に声掛けできるなら、Yさんは「死にたい」ではなく「死にたいくらい辛い」から、そんな行動をされたんじゃないの?と言うでしょう。病は昔も今も、私たちに孤独を教えてくれ、死にゆく人(病者)と死にゆかない人(家族・友人や医療者)の境界を明らかにさせるのかもしれません。


「生きたい」はどこにある?

Yさんと過ごせたのは実習の2週間でしたが、その間にメンタ湿布(ハッカ油で便秘に効くらしい)したり、足浴したり、お話したり、お散歩したり、なんか色々してました。でも本当はしなくてもいいことをセッセコしてくる看護学生を可愛いと思い、見守り育ててくれていたんですよね。
そして実習の最終日には、テレホンカードを買ってきてくれていて、こういう贈答品はもらってはいけないのですが、その温かさに断り切れずこっそりもらった記憶が残っています。
お別れの時、何度もバイバイした輪郭をよく覚えているけど、私にはYさんが「もう少し生きてみるか」という輪郭に見えた気がしています。


SpiritualCareの基本姿勢

自分が誰の役にも立たない孤立した人間と思えたとき、私たちは「死にたいくらい辛い」のかもしれません。
でも逆に、どんな形であれ誰かのために何かができると思えたとき、例え死が迫っていても「生きたい」が力が見えてくるのかもしれません。
Yさんは私のために、そのとき少しだけ「生きたい」と力を発揮してくれたのかもしれません。
よく看護学生さんたちが「結果的にSpiritualCareしてんなー」と思うことがありますが、それはこんなことなんですよね。

偉ぶらず、高ぶらず、奢らず、人に仕えること。
それが SpiritualCare の基本姿勢です。


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