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No,10 メディアリテラシーの矮小化

かつて日本人は世界で最もテレビ視聴時間の長い国であり、「テレビ報道=事実」と妄信する人が多い国でした。そこへ疑惑と不信感をもたらしたのは、「テレ朝・やらせリンチ」事件(1985)や「NHK・禁断の王国ムスタン事件」です。いずれも事実でないことを過剰演出で描いたことが発覚し、人々に衝撃を与えました。

その流れに乗るかのように翻訳・出版されたのが「メディア・リテラシー /マスメディアを読み解く」という本です。メディアリテラシーとは「メディアの読み書き能力」を指し、原版はカナダ・オンタリオ州の学校教材であった。日本で初めて紹介されたこの言葉は、一世を風靡しました。

この教科書では、メディアリテラシーを学ぶ目的としてこう書かれています。

『メディア・リテラシーの最終的な目標は、単に、より深い理解や意識化のためにあるのではなくて、クリティカルな主体性の確立にある』

また、その手段については、

『本書では、メディアの制作を実際に行う数多くの機会が示されている。それは基本的な概念を応用し、実際にメディアを解読するのを補足するための重要な側面である。メディアの制作活動を最終目標としてはならない』
        
とあります。簡単に言うと、「テレビ報道やCMに踊らされるのではなく、批判的な市民を育てること」が目的であって、「制作の手段ではない」と書かれているのですね。

ところが、その趣旨を本当に理解した人は多くありませんでした。流行に乗って、特に誤解を招いたのが、従来の映像技法書が「メディアリテラシー」という表題を一斉に使い始めた点です。これにより、メディアリテラシーという教養は、日本では映像制作の方法論に矮小化されてしまいました。

つまり、日本では原著の「目的・手段」が無視され、いわば手段が目的化し「メディアリテラシー=制作活動の手段」と誤解されてしまったわけです。

そんな中で、さまざまな大学にメディア関係の学科が作られ、大層な業務用機材が設置され、学生の課題は制作の成果物(作品)になり、理想はメディア関係への就職・・・というような、従来の技術的専門学校のようなカリキュラムが全国に跋扈しています。これでは「批判的な主体」など育ちません。

しかも技術中心の授業なので、カメラマンの訓練をして、。ディレクターの教育はあまり行われません。そもそも教員に経験がない人が多いからだと思います。転倒しているうえに、企画制作も矮小化され、バランスを欠いた講座が一般化しています。

ディレクター教育は、そもそも映像業界に存在しない、という理由もあるでしょう。

私は、縷々述べたような状況を打開するため、2013年に「ドキュメンタリーの語り方-ボトムアップの映像論-」(勁草書房)を出版、多くの人に感想をいただきました。

大学の先輩で、テレビ朝日のプロデューサーを長く務めた方は「40年間局にいて、こんな体系的なことを教わった覚えはない」とコメント。また、日テレ出身で現在大学教授をやっている水島宏明さんは「ウチの学生たちが、皆遠藤さんの本を見てレポート出してくるんだよね」とおっしゃいました。つまり類書がないということでしょう。

で、結局のところ、日本ではメディアリテラシーは、本当の意味では浸透しなかったといえます。インターネットの普及により、テレビ報道やCMも相対化されてはいますが、出てくるのは感情的な批判ばかりです。

日本のメディア状況を変えるには、まず原点に立ち戻る必要があると私は考えています。

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