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水と怪物 第三部・後



 そうだ、まだ二日しか経っていないのだ。それなのにどこか冷静にはなっていて、少し不気味にすら感じる。これも、二日とはいえ時間が経ったからなのか。
 三宅さんは新しく届いた生春巻きに箸を伸ばした。それを、僕の小皿に乗せる。
「彼氏? は、どんな男なんよ。会ったことは?」
「無いです。写真は見た事あるんですけど、結構若そうな……多分僕の方が歳は近いんじゃないかなって」
 二つ目の生春巻きを僕の皿によそいながら、「きっついなあ」と三宅さんは苦い顔で呟く。
「ただ……そこから母さんは、どんどんおかしくなっていきました」
 そうだ、僕を捨てるくらいに。十九年間人生を捧げた存在を、あっさりと手放せるようになるくらい……あの男に、呑まれた。
 一体何がよかったのだろう。それは、一切分からない。母さんはずっと、男にかまける事なんて絶対無かった。母さんは生真面目だったから、僕にとって悪影響がありそうな事なんてしないように努めてきていた。
「滅多に帰ってこなくなりました。僕が家にいる時間絶対合わせて今までいて、くれてたのに。僕をひとりにするのは嫌だから、って。でも……付き合い出してから、初めて、僕が帰っても……家に居なくなるようになりました」
「え、シングルマザーやのに? すごいお母さんやな、お仕事とかは?」
「僕が学校とかでいない間に、家でずっとしてました。内容はずっと教えてくれなかったんですけど」
 母さんが居なくなってから、僕は母さんの手がかりを得るために家じゅうひっくり返した。周りの事はすべて母さんがしてくれていたから、自分の家の中でも知らない事がたくさんあった。
 そこで僕は、初めて母さんの仕事を知った。母さんが僕に絶対に開けるなと言っていた大きな鍵付きの箱があって、鍵を死に物狂いで破壊した。するとその中に、その道具は有った。僕だって一般の男としての常識はあるし、すぐに意味を知った。その場で泣く程嘔吐した。毎年引っ越していた理由も、ようやく分かった。きっと、誰かに狙われる度に逃げていたんだってようやく気付いた。
 母さんが、母さんで無くなった気がした。実際そうなんだ、あの人は役割を放棄したのだから。だから僕も、息子であるという事を強制的に放棄しないといけなかった。
「……でも、母さんが居なくなったら。僕の、存在意義が分からなくなったんです」
 母さんが僕に人生を捧げたように、僕も母さんに人生を捧げてきた。母さんが望む姿で、僕はずっとあり続けてきたんだ。それでしか、生き方を知らなかったんだ。だって母さんは、僕の神様だったから。
 この先なんて、どうすればいいのかも分からない。そして何故か、『逃げなきゃ』と思った。何から何へ、なんて分からないけれど。
「とにかく終点を目指しました」
 ただ、終わりを探した。終わらないといけないと思った。
「終点……って、阪急?」
「はい」
 そしてたどり着いたのが、ここだった。京都河原町。京都は住んだこと来たこともなくて、未知の世界のように感じた。色々な町を知っているはずなのに、どこでも見た事がない不思議な感覚があった。それは昼間、この町を歩いてより実感した。
「死にたい、って思いながら降りたんです。でも今思えば、それなら線路に飛び込むって手もあったなって」
「いやあ、やめた方がいいよ。あれ後処理にめちゃくちゃ税金使うしあらゆる奴に恨まれる。逃げたつもりがそうやってこの世に留めさせられるよ」
「結構スピリチュアルな事言うんですね」
「ほら私意外性の塊やし」
 言っている意味があまり分からなかったから反応せずにいたら、三宅さんは煙草に火をつけた。目を向けると、気付いたように「大丈夫?」と問うてくる。頷くと、すぐさま煙草を口にくわえていた。そんなの聞かなくても、昨日は吸っていたくせに。
 煙を吐きながら、三宅さんは微笑む。
「そもそも死んで、得なんてしやんよ。少なくとも周りは」
 その言い方が、妙に引っかかった。
「周りの人のために、死ぬなってことですか」
「そういいたいけど、でも君周りの人自体がそもそもおらんのか」
 そうだ、いない。僕が死んで泣いてくれそうだとか、そんな想像がつく存在なんて一人もいない。親戚も知らないし、友達も昔からいない。昔友達と遊んでから帰宅すると、「私は遊んでもないのに」と母さんが泣き叫んでいたから、友達は作らないって決めていた。
 母さんは、もし出ていってなかったら僕が死ぬと泣いただろうか。泣くだろうな、きっと。十九年間をドブに捨てたのと同じになる事実に対して。
「三宅さんは、いるんですよね。周りに、人は」
「そうね、少なくとも職場の子とかは。ジジババは死んでるからノーカンやけど」
 ……駄目だ、読めない。この人にとっての夫という存在が。無意識に目線が指輪に行っていたせいか、三宅さんは右手の指で左手の指輪を回し始めた。けれど、それだけだった。何も言わない。

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