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詩についてのちょっとした考察

「どうやれば詩になるのか?」が詩の課題だとかつては思っていたんだが、最近はむしろ「何を書いても詩と呼べてしまう」ことの方が遥かに重要で深刻な問題なのではと思い始めた。
どんなへっぽこでも「詩と言い張れば詩になる」中で、「詩の懐の深さ」に甘えず立つ「作品」を書けているのか?の問い。

格闘の技術でいえば「書く」は「攻め」で、「読む」は「守り」だと思う。
一人でも人を殴る練習は出来る。筋肉がついて鋭いパンチを打てるようになったり、自分独自の技を編み出すこともあるだろう。
でもそんな自分が強いのかどうか?編み出した技が有効なのかどうか?は「守り」を知らねば解らない。

「守り」の練習は大変だ。相手がいなければ出来ないことだし、慣れない内はダメージを負う。痛みや傷は己の弱さを自覚させ、強さを盲信したい自分を揺るがす。だから皆やりたがらないし、逆にいえば「守り」の技術を覚えた分だけきみは人より強くなる。自分の「技」が「強さ」が「わかる」ようになる。

「自作が詩なのかわからない」人が多いのは、ひとえに「読めない」からじゃねーのかしら。自分は強いと思いたいけど実際どうなのかわからないチンピラ的な。
だから大して吟味もせずに「詩」だと言い張ったり、その逆に「詩を書いてるつもりはないです」とか「詞です」とか情けないこと言ったりする。


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