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生徒手帳のシーウィー 12

週の前半は「四月半ばの陽気」だと言われていたのに週末になると強烈な寒波が東京に押し寄せ観測史上記録的な気温を記録した。ビルとビルの間を通る風はより強くガラス片のように鋭利でまるで頬を切り裂くようだった。

パンクファッションに身を包んだこの季節にしては薄着の男女たちとともに改札を出て神田川を渡り東京ドーム方面に渡る。東京ドームシティの前身である後楽園球場は戦前からそこにあり幾度となく改装が繰り返されているものの、どうも昭和くさい。

プロムナードでわたしとそう歳の変わらなさそうな夫婦が小さな子どもの手を引いているほほえましい光景が目に入った。平凡な幸せだ、手に入れようと思ってもなかなか手に入れることのできない圧倒的に正しい強者だ。もし彼と付き合い続けていたらそういう未来が有り得たのだろうか。それともわたしが我慢して付き合い続けていても遅かれ早かれ別れる結果になっていたのだろうか。どちらにしろ、わたしはわたしがあのときに直感に基づいた選択を信じるしかなかった。そもそもあれは直感と名付けてしまっていいのか分からない。直感というよりも直情という感じもしなくもない。

これから上司の息子とセックスをする……普通ではない人生だが少しだけ面白さを感じている自分がいる。別にセックスが好きでは……いや、わたしはセックスが好きなのかもしれない。セックスの非日常感が、どこかわたしはどこかへ連れて行ってくれるような気がするから。この代り映えしない日常を数ミリでも遊離させてくれる感じがするのは嫌いでは無い。

丹下健三の後期の作品である東京ドームホテルのエントランスには各国のアジアからの旅行者の一団が大きなキャリーケースをごろごろと引いて大きな声で会話をしていた。ソファにどかっと座っている本町課長がわたしに向かって手を振っていた。

「今日は来てくれてありがとう。わざわざ休日にすみませんね」

くしゃりと顔を歪ませて課長は笑顔になった。

「あ、いえいえ、それにしても楽しそうですね、すごく」

「そりゃあそうさ。今日は我が息子の童貞卒業の門出の日だからね」

 課長は大きな声でそう言う。

「課長っ、声が大きいですよ」

いいんだよどうせ周りは中国人だけだ日本語なんて分かりっこない、と課長はがはがは笑って言った。差別的なジョークを飛ばすだなんて、今日の課長は心底機嫌が良さそうだった。ポケットからカードキーを取り出して私に渡して、力を込めて言った。

「よろしく頼むよ」

「最後にもう一度聞きますよ、本当に良いんですね?」

「ああ、たけしも俺の意図していることを分かってくれるはずだ。父として息子にしてやれる数少ないことの一つだ」

エレベーターに乗って目的の階を押して扉を閉じる。乗客はわたししかいなかった。壁に寄りかかって窓の外に視線を見やると、昭和の雰囲気が漂う奥ゆかしい遊園地のアトラクションが眼前に広がった。とくに目立つのが落下傘のついたゴンドラが吊り上げられている光景だった。それに視線を合わせているとあっと言う間にそれよりも高い高度に上がってしまった。東京の空は見事な冬晴れだった。とても清々しい青空だった。目的の階に着いたことを知らせるチャイムが鳴り、エレベーターの扉が開いた。

ふかふかの絨毯の廊下に降り立ってわたしは正気に返る。わたしに中学生の筆おろしなんて、そんな大層なことが務まるのだろうか。わたしは性経験が豊富なわけではない。彼氏と本町課長を含めてもたった五人くらいしかいないし、それもいつも相手に任せきりで自分からセックスを持ちかけたことなどない。

そもそも中学生にとって二十代半ばの女性とはいったいどういう印象を受けるのだろうか。おばさんとかおじさんという印象ではなかっただろうか。とんでもなく大人だと思っていたような気がする。どうしようそもそも勃たなかったら……一応この日のために清楚めな青色のレース下着を新調したし、若々しく見えるように大学生の時に着ていたケーブルニットを衣装ケースの底の底から発掘してきた。しかし身体の経年劣化は避けられるものではない。指先にもハリがなくなってきたし、ついにこの前に白髪を発見してしまった。いくら本町課長から褒められていても客観的事実からは逃れることはできない。自信がなくなってきた。いや、ここで躊躇していたらだめだ。いろいろ考えていたら動けなくなってしまう。えりさも自分の老化に思い悩んだりするのだろうか。それともそんなことなど気にしていないのだろうか。さすがに生粋のサディストとは言え、時間を屈従することできない。

どうして二週間前のわたしは断らなかったのだろう。こんなのは間違っている。やはりそういうことはプロに任せた方が間違いないんじゃないだろうか。わたしもそう言った。そうしたら「いや、お店ではだめなんだ。お店では金を払っているからな。金さえ払えばそういうことができるとは思われたくない」と言っていたが、わたしには金を払っているじゃないか。

しかし東海林さんだったらこんなことで悩んだりはしないのだろう。きっと「ふふ、おもしれーじゃん」と舌なめずりするかもしれない。たけしくんを四つん這いにしてヒールの踵を背中に突き立てるくらいのことはしているかもしれない。東海林さんだったら手汗の滲む緊張感など物ともしないだろう。こうして廊下を行ったり来たりすることもないかもしれないし、意味もなく非常階段の位置を確認したりはしないだろう。

とうとう扉の前までやってきてしまった。東海林さんだったらきっとこの緊張感すら楽しんでしまうんだろう。わたしはこの緊張を楽しむことなんてできなかった。ただただこの緊張感に溺れそうになる。このカードキーを扉に差し込めば始まってしまう。わずかな綻びすら許さない強固な日常が覆っている東京から浮遊しようとしている。

でもここで負けるわけにはいかない。このまま逃げることはできないしこのまま引き返し「やっぱり無理でしたできません」などと言えるわけがない。もうお金はもらっているのだ。

わたしは意を決してカードキーをスリットに差し込んだ。ぴぴっと言う電子音とともにロックが解除され解錠される音がした。



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