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生徒手帳のシーウィー 16

わたしたちは、天井の赤みがかったLEDランプを眺めたり、肩にお湯をかけて、時間をやり過ごしていた。たけしくんは、わたしの方をちらちらと見るようになっていた。何かを言いたげな感じだったが、わたしはそのままにしていた。そして、浴槽のお湯を両手で掬って、顔にばちゃばちゃとかけて、彼が口を開いた。

「……僕、学校行けてないんだ……」

たけしくんは、あからさまに緊張している声で言った。

「そうなんだ」

たけしくんが学校に行けていないことは、もちろん知っていたが、知っているとは言わなかった。これは彼がきちんと言葉にしなければならないことだからだ。

しかし、彼はまたしばらく口を噤んだ。唇がわなわなと震えだし、今にも言葉が溢れそうだったが、先に溢れ出したのは涙だった。よっぽど、辛い思いを抱えていたのだろう。

わたしは、体育座りの姿勢のまま、尻を浮かし彼の方に身体を寄せた。そして、濡れた手で、彼の頬に伝った涙を拭った。

「ぼ、僕が、ぼ、僕が、ぼ、が、悪い、んだ。んぐっ」

彼は、話そうとすればするほど、言葉に詰まってしまい、涙が溢れ出てくる。たけしくんの涙は生温かった。

彼の頭を手で引き寄せて頬にキスをした。そして、頬を伝う涙を舐め上げた。

たけしくんは、びっくりしたような顔でこちらを見る。

「んふふ?」

「ど、どうして……」

「ふふ、ごめんなさいね。でもね、わたしが付き合っていた彼は、わたしが泣くと、こうしてわたしの涙を舐め上げていたわ。彼はわたしが泣くのを見るのが好きだったみたい」

「そ、そうな……の?」

たけしくんは、「なんだこの大人は」というような顔でこちらを見た。

「子供じみてると思った? べつに、大人って、いくつになっても、大して変わらないものよ。もしかしたらあなたくらいの歳の方がよっぽど、大人かもしれない」

「へ、へえ、そう、なんですか」

わたしは、彼に頬を寄せ、頭に回した手を赤子を寝かしつけるようなリズムと強さで叩いていた。そうしているうちにたけしくんは、落ち着いてきたのか、泣き止んだ。そして、わたしの手を優しく退けて、言葉を続けた。

「し、シリラート病院……」

たけしくんは、若干冷静になって、泣き止んだようだった。

「え?し、しりらー病院?」

わたしは耳慣れない単語に思わず聞き返してしまう。

「シリラート病院……です…タイのバンコクにある病院です」

「それがどういう関係があるの?」

「ここの病院に併設された博物館は、世界でも稀な死体の標本が多く展示されているんです」

「……死体?」

「は、はい。もしかして気味悪いって思いました?」

「うーん、別にそんなには、いや、ごめん、ちょっと引いた」

わたしは、素直な感想を言う。

「す、すみません……」

「いや、べつに、引いたって言ったって大したこと無いからそのまま話してみて」

「シーウィーという犯罪者がミイラになって、博物館に展示されています…
その博物館に展示されているのは、それだけではありません。銃で撃たれて銃槍ができた頭蓋骨や、奇形の赤子のホルマリン漬けがたくさん展示されているんです……
 ぼ、僕は、シーウィーの写真を見て、とても勇気付けられたんです…」

そう言って、へへ、と笑った。中二病みたいでしょ、と自らを嘲笑うように付け加える。

「僕達は人間である前に、物質であること。尊い存在ではなく、死んだら動かなくなる物質であるということ。
そして、死は身近にあって、生きている僕と死体を分ける境は曖昧であること。僕も、死んだら動かなくなること。
それは、救いであるような気がしました。死はよく分からなくて怖いものでしたが、死んだらああいうように動かなくなる。そして、物になる。それは、漠然とした生や死への不安を和らげてくれました。
でも、やっぱり、そういう死の恐怖と憧憬とより現実的な死の表出というよりも、ただの中二病ですよ。何と言うか、タブーを超えたものに触れていたいだけ、と言う、そういう若気の至りなのかも」

どうだろうか。生をカードの表側だとしたら、死はカードの裏側で、生と死はいつだって表裏一体だ。生への渇望が死への興味を抱くことだってあるのではないだろうか。

「自分でも、馬鹿だって、馬鹿なことをしてしまったと思います。だけど、どうしても、辛いことがあったときは、シーウィーのどす黒い身体の写真を見て、心を落ち着けたくなったんです。
ぼ、僕は、学生手帳の裏側に、プリントアウトした、シーウィーの写真を貼り付けました。
僕は、とても、満足でした。僕は、息苦しい学校生活のなかで、酸素ボンベを手に入れたような気分でした。昼休みや、学校の行き帰りに、ちらりと、シーウィーの写真を見る。こ、心を落ち着けていました」

そう言って、またしばらく沈黙が続いた。そして、彼の目頭に涙が溜まってきた。ああ、また泣き始めるのだな。

「ある時、あろうことか、ポケットに入れていた学生手帳が、落ちてしまいました。そ、それも、帰りの、ほ、ホームルームの、時間でした。その時に、気が付いたクラスの女子が、拾い上げ、僕に渡そうとした時に、シーウィーの写真を貼ったページ、が、ひ、開いてしまったんです。
そ、その時の、女子の、ゴミを見るような視線。次の日から、わたしはクラスの腫れ物扱いになって、いました。女子はと、当然ながら、だ、男子も……
ぼ、僕が、悪いんです。こんな、気味の、悪い、写真を持ち歩いた、僕が、悪いんです。で、でも、僕は、弱いから、そんな状況に、耐えられないと思って、逃げ出してしまいました……でも、そんなこと、誰にも言えなくて……」

そう言って、たけしくんは顔をお湯につけた。

わたしは、彼の気持ちが分かるような気がした。確かに、大人になった自分からすると、そのような物を人目につくような所に置いておくのは、エキセントリックすぎるし、迂闊すぎると思う。しかし、この社会は、とても清潔な世界だが、死や、暴力といった、汚らわしいもの、辱めるようなものが消滅したわけではない。どこかに押し込められているだけだ。わたしたちは、清潔なままではいることはできない。えりさは、自分の暴力性を、恥ずかしがることなく、誇示し、自覚的に、暴力を振るっていた。それに、わたしは惹かれた。それと、似ている、のかも、しれない。

「お湯、すっかり冷えちゃったね。もう出ようよ」

たけしくんの頭に乾いたバスタオルを被せ、子犬の身体を拭くように、ぐしゃぐしゃに髪の毛を拭いてやる。薄い胸板についた水滴はタマになって弾いていて、とても綺麗だった。

この胸に舌を這わせる女性は、何人現れるのだろうか。そして、わたしとの記憶を何人の女性と交わるまで覚えていてくれるだろうか。できるだけ、長く覚えていてくれたらいいと思う。

「く、くすぐったいです……」

「えー、こういうの、だめ?」

「……だめじゃ、ないですけど……」

「んふふ、じゃあなんなの?」

そう言って、彼の肩を押して、ベッドに追いやり、押し倒した。

餃子の皮のような包皮に包まれた陰茎が目の前に現れ、わたしはそれを口に含む。たけしくんはわたしの上舐め下舐め横舐めにされるがままにされている。わたしを引き剥がすことはなく受け入れてくれている。

わたしはようやく日常を隅に追いやることができた。小説にしたら何枚分が経過したのだろう。映画だったら何十分経ってしまっているのだろうか。わたしがこの部屋に入った時には、まだ高かった日はだいぶ低くなってきて、だいぶ陽の光に赤みがかってきた。

とにかく、やっと、だ。出会って四秒で合体など、できるはずがないのだ。日常は姿を潜め、非日常が顔を出す。

「……っん……はあ」

わたしの頭の動きに合わせて、たけしくんが声をあげ、日常が非日常に押しやられる。ふと考えてみると、これほど滑稽な行為などあるだろうか。私たちが、実際にするにしても、しないにしても、このように、異性の性器を舐め回し、間の抜けた声を上げて、私はそれを聞いて性器を湿らす。

まるでうっかり昼寝をしてしまった時に見るような荒唐無稽な悪夢のようではないか。たけしくんの性器から口を離して皮を剥くと、ラズベリーのような色をした亀頭が姿を現す。充血したそれは、青臭い匂いがして、舌の裏から唾液がじんわりと滲むのが分かった。

わたしは、フルーツタルトを舐め回すように、たけしくんの性器を舐め回した。本当はキルフェボンのフルーツタルトにだって、こうしたかった。あの、てらてらした果物に舌を這わせたいと思っていた。だけど、わたしは、大人、だから、犬じゃないから、しなかった。だけど、本当は、こうしたかったんだ。

「っ……こ、狛江さん……痛いっ」

早摘みのたけしくんの亀頭には、刺激が強すぎたようだ。
「うるさい」

わたしはそう言う。これは、わたしに、この時だけは、わたしだけの、デザートなのだ。そして、もっと、鳴かせたいと思った。もどかしい。もっと、もっと、と、子どもがお菓子を強請るように、たけしくんの身体を這い上がり、彼の腰に跨る。

「ねえ、よく見ていなさい」

そう言って、わたしは、彼の性器に、腰を沈める。フルーツタルトに指を突っ込んだような感覚であり、フルーツタルトが指で押し広げられるような感覚が下腹部に走り、背筋にぞくっとするような快感がせり上がってきて、身体が震えた。

わたしは、たけしくんと繋がったまま、たけしくんにキスをする。そのキスは、とても大人としてのキスと言うよりも、犬みたいな、赤々とした唇を食うようなキスだ。相手をまるで食べ物かのように見立てているような、荒々しいキスをした。そうしたかった。わたしが。

それは、犬みたいだった。ねえ、えりさ。見ているの? そこで、枕元で、わたしを見下しているんでしょ。わたしだって馬鹿みたいだって思うよ。でも、そういうものでしょ。ねえ、答えてよ。

しかし、えりさは答えなかった。

わたしは、たけしくんをより感じたくなる。皮膚すら邪魔だった。粘土みたいに、混ざりあえたらどんなに気持ち良いのにな、と思う。


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