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生徒手帳のシーウィー 11

今晩も期待していなかったと言ったら嘘になる。でも相手は既婚者だ。わたしから誘うのは今更だが道義的に気が引ける。しかし課長からの誘いだったらわたしは咎を感じずに済むのに……「課長から誘った。わたしはその誘いを断り切れなかっただけ」……だから本町課長の口から出た言葉に面食らった。

「いったいどういうことですか?」

「ああ、もちろんおかしなことを言っているのは分かる。でも狛江さんにお願いしたいんだ」

「いや、でも、え? 息子さんの……その、童貞をもらってくれって……」

数年前に会社の忘年会に連れてきていたときがあったが、まだあどけない少年だった。

「まだ、え?だって、まだ小さいでしょう。そんなことを考える歳じゃないですよ」

「あいつはもう中三だよ」

と本町課長は言ってわたしは驚く。

もうそんなに経ったのか。自分が小さい時分、普段会うことのない親戚に会うたびに「大きくなったね~」と言う気持ちがやっと分かった。でもとは言え、まだ中学生だ。

「でも中三でしょう。そんな童貞か童貞じゃないかなんて気にする歳じゃないですよ、むしろそういうのは悪影響ですよ。子どもが子どもらしく……」

わたしの言葉を遮って、

「いやもう遅いくらいだ」

 と言う。

本町課長はワインを飲み干して、店員に追加注文をした。

「嫌ですよ」

「こんなこと狛江さんにしか頼めないんだ」

「無理です。でも、いったいなんで……たけしくんだって嫌がるでしょう」

「恐らく嫌がらないだろうと思う。なんたって俺だって始めては二十歳以上離れた女性だったからね、わっはっはっは。少し話だけでもさせてはくれないだろうか」

課長がわたしに頭を下げて眼をじっと見つめてくる仕草に可愛らしさを感じてしまい、ええ聞くだけですよ、でも聞いたらそれで終わりです、と答えた。では話させていただきます、と課長が言った。仕事が終わった後の本町課長はいつもより柔和な印象を受けてどことなく可愛い。

「うちのたけしだが、ここ一年くらい学校に行っていないんだ。つまりなんだな、不登校と言うやつだ。正直、うちの息子が不登校になるとは思っていなかったよ。
 しかし、彼は頑なに理由を言わなかった。言おうとしなかったんだよ。もちろん叱りつけたりはしなかったよ。なんとか俺なりに彼に寄り添おうとはしたよ。ただ、俺とたけしでは歳が違いすぎる。それに父子と言う関係が邪魔してなかなか俺に本心を打ち明けてくれはしなかった」

彼には独善的な部分があってひとの性質を自分の枠内に収めようとする。上司と部下、男と女など決まりきった間柄では参照される行動様式を予測しやすく、リードされている気分になるのでむしろ好感が持てるが、問題を抱えた息子にとっては逆にそれが鬱陶しいのかもしれない。

「親子とは言え、プライバシーというものがある。だからこんなことはしたくなかったが、彼に買い与えたパソコンを彼がいないうちにこっそり覗くことにした。幸いなことにパスワードはかかっていなかったのでパソコンの中身を容易に見ることができた。そして彼のツイッターのアカウントをブックマークから発見することができた。大方の予想はついていたがたけしはいじめを受けていたみたいなんだ。なあに、俺からすれば、それほど酷いいじめではない。
 ねちねちと悪口を言われたり、あからさまに気味悪がられたりとか、その程度のようだ。しかし、ただいじめているのが女子だというのが問題で、たけしは深く傷ついているようだ」

わたしは町田くんの顔が思い浮かんだ。町田くんも東海林さんという「女子」にいじめられていた。東海林さんは町田くんの尊厳を根こそぎ奪い蹂躙していた。

「男子にとって女子という生き物は――女性を前にこんなことを言うのは憚れるのだけれど、と断りをいれて――なんというか厄介なのだよ。男同士ならば殴り合えばいい。だけど、男子にとっては女子は庇護すべき生き物ということになっているし、手を上げられないし、たけしは処世術に長けているとは言えない。だから女子を畏れるようになっている」

課長は手持ち無沙汰になったのか、取り皿の上に取り分けられたステーキ肉を一口サイズ大に切り分け始めた。

「いや、まあ、でも、童貞なんて気にすることはありませんよ。別に数が多いからって偉いわけでもありませんし、女性だって経験人数が多いというひともいなくは……ないですが、それもただの好みの問題です。料理ができる子がタイプとか、読書好きなひとがいい、とかそういうのと同じようなものです。だから無理に捨てさせる必要はありませんし……むしろこんなおばさんとするくらいだったらきちんと好きなひとができたときに取っておいた方がよっぽど良いです」

わたしは思ったことを課長に伝える。別に恋人がいないことが人間性に関わるようなこととは思えない。性のことと生のことはまったく切り分けて考えた方が良い。課長は黙って一口サイズに肉を切り分け、さらにそれを二等分に切り分け始めた。

「……この前、どこかの大学生がネットで首吊りする光景を生放送したってずいぶんニュース番組で話題になっていただろ」

そのニュースなら知っている。スマホのカメラを使って自分が自殺する様子を全世界に向けて中継したという事件だ。動画サイトに動画が上がっていてそれを見た。ニュース番組では彼の半生を面白可笑しく特集していた。

自分が童貞のまま死ぬのが嫌だから知り合いの女子を片っ端から連絡を取ってセックスを懇願し、挙句の果てに路上で土下座をして女子を困らせ警察沙汰になっていたらしい。

「たけしにはああなってほしくない」

「大丈夫ですよ、なりませんよ」

わたしは鼻で笑ってしまう。

「いや、たけしにはその女子という生き物のことをきちんと正しく知ってほしいのだよ。それはなるべく早いに越したことはない。その、男子にとってちんこを使えるか使えないかというのはすごく重要な問題だ」

いや、それは論理が飛躍しているような気がする。それにセックスをするということが女子を知るということなのだろうか。

「男子にとって女子は世界そのものなんだ。そしてたけしは世界に拒絶されている、と感じている。だからこそ、自信をつけさせてあげたい」

 そう言って、本町課長は懐のポケットから茶封筒を出した。

「この中にはキミの給料の一ヶ月分の金額が入っている。もし承諾してくれるならこれを受け取ってくれないか。俺がたけしにしてやれることは年々少なくなってきている。俺にできることなら何でもしてやりたいんだ。頼みます」

そう言って課長は頭を下げた。



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