見出し画像

【5/19】恐ろしく、薄ら寒く、心地よくー『猫を棄てる』感想

高校生だった一時期、私の記憶違いでなければ、友人たちとのごくごく狭いコミュニティの中で、それぞれの家の「家紋」を教え合う……というのが流行った。もちろん、一時期というのはほんの短い間、1週間とかそこらである。ただ、友人たちが自分の家の家紋を「うちはこんなふう」「うちはこんな」と誇らしげに教えてくれるのに反して私は、そのブームのあいだ黙りこくり、自分の家の家紋を教えることは決してなかった。だいいちうちの家紋なんて知らなかったし、また親に「うちの家紋ってどんな?」と聞くことは、なんとなくタブーなのではないかという気がして、憚られたのである。

前世占いは好きだ。あれは、良くも悪くも一種のギャグだから。15年前くらいに横浜の中華街かどこかで占った結果によると、私の前世は「アフリカの奥地に生息していためちゃくちゃ珍しい種類の蚊」らしい。蚊でもいいし、どこかの国のお姫さまでも王子さまでもいいし、画家でも僧侶でも革命家でもいい。ギャグだから、どんな結果が出ても素直に感心できる。でも、占いではない本当のルーツはギャグではないから、どんな結果が出ても……というわけにはいかない。笑えないかもしれないし、受け入れがたい事実が、そこにあるかもしれない。

だから私は自分の家の家紋なんて一生知らずにいたいし、父と母の馴れ初めとかも、できる限り耳に入れたくないのだ。ちなみにいうと私の父と母は高校の同級生なんだけど、それ以上のディティールを知りたくない。こういった態度が珍しいのかよくあるやつなのかわからないけど、私は、自分の出自がつまびらかになることに消極的だし、少なからぬ恐怖心を覚えるタイプの人間なのである。

村上春樹が父について語りながら自身のルーツに迫るノンフィクション『猫を棄てる』は、したがって、私にとっては一種のホラーだったといえなくもない。

『猫を棄てる』は、基本的には幼少時代の、村上春樹の頭の中にある記憶を中心に進んでいく。しかしそれでは補えないところも当然ながらあって、村上春樹が当時の、父親が戦争で従軍していた時代の新聞記事や軍歴について調べているところもある。もしかしたら、親がこの世を去ったら、簡単な作業ではないとはいえそういったことも心理的に可能になるのかもしれない。しかし、自分が30代で親もまだ50代で健在の私にとっては、自分が生まれていない時代の親の記録を調べることは、やっぱりタブー感が強い。

村上春樹は本書で、自身のルーツに迫る文章を書けば書くほど、「自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚」に襲われたという。その感覚は、実際に体験したことはないけどわからなくはない。というか、その感覚に見舞われるのが恐ろしいからこそ、私は自分の出自をなるべく知りたくないのだともいえる。「もし父が兵役解除されずフィリピン、あるいはビルマの戦線に送られていたら」「もし音楽教師をしていた母の婚約者がどこかで戦死を遂げなかったら」。村上春樹という人間はこの世に存在せず、村上春樹がこれまで書いてきた数々の小説やエッセイもまた、この世に存在しなかった。自身のルーツに迫ることは、自分がいくつもの偶然によってこの世に誕生した、決して確たる存在なんかではないことを気づかせてしまう。

でも、その「自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚」は、恐ろしく薄ら寒いものでありながら、同時に心地よいものでもあるかもしれないーーと思わせるものが、『猫を棄てる』にはあった。

『ブンミおじさんの森』という、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督が作ったタイ映画がある。映画の詳細は省くが、この映画に登場する「ブンミさん」のモデルになった人物には、前世の記憶があるらしい。かつて自分が王女さまだった頃、水牛だった頃、兵士だった頃、すべて覚えているというのだ。「私」が誰であるかは、このときあまり関係ない。ただ、そのときその時代の、重力を覚えている。世代の空気を、覚えている。私の存在そのものを感じるよりも、自分がある時代の重力を受けて生きた存在であると実感できたほうが、心地よい。きっと人生のどこかで、そんなタイミングがやってくるのではないかという気がした。

私の「個」としての輪郭をはっきりさせるのではなく、むしろその輪郭を曖昧にして、大きな時代のうねりや、生命の総体のようなものに溶け込んでいくほうが、心地よいと感じるタイミングが。

だから、これはいささか個人的すぎるし、『猫を棄てる』の感想としてはちょっとズレていてあまりふさわしくないような気もするけどーーなんとなく、私はこの人生で子供を産まなくてもいいな、とも思ったのであった。私は「個」として生きているが、それ以上に、大きな時代のうねりの中に生きていて、その総体のようなものがきちんと次世代に命を繋げられればいい。私が子供を産まなくても他の誰かが産めば、私の遺伝子は引き継がれなくても、私の「記憶」はどこかで誰かが引き継ぐだろうーーと、まあそんなことを思ったのだった。ぼんやりと。

とはいえ、30代の私には、その薄ら寒さと心地よさを同時に味わう勇気がまだ備わっていない。『猫を棄てる』を読んで予習するのがせいぜいで、自分自身の感覚としては、まだ「個」としての私を捨てきれないし、自分の輪郭にしがみついている。親がこの世を去り、「次はいよいよ自分の番だ」となったら、私の場合はそのときはじめて、自分自身が透明になっていく心地よさに、身を浸してみてもいいと思えるようになるのかもしれない。

誰かの記憶は、誰かが引き継ぐのだろう。村上春樹の父が村上春樹に語ったように、直接に口頭で引き継がれる場合もあれば、時代の空気や重力となって、間接的に引き継がれることもある。しかしとにかく、何らかのかたちによって、本人の意図とは関係なく、記憶は引き継がれるのだ。必ず。

それはやっぱり、恐ろしく、薄ら寒く、そして心地よいもののような気がする。

この記事が参加している募集

読書感想文

شكرا لك!