涙を噛みしめて。ー最初で最後のメンタル最低下時の話ー

あいも変わらずの書き殴りの生業です。

だいぶ、自身の話を切り売りしてしまってる感のある状態ですが、

配信でも、あまりしたことのない話をしよう。

何も考えないで専門学校に入り、何にも考えないで就職をし、

20歳の頃は、そこそこ元気でいた。

しかし、徐々にメンタルがおかしくなり始める。

このころ、母が我を失って、刃物を振り回したり、

ありもしない妄想を抱いたり、石ころを拾って、近所の家のベランダガラスを、

割って歩いたり、奇行・・・と、呼べないような、異常な行動をしだし、

せっかく自身に出来た最高の父も疲れ始め、

家族揃って、地獄に落ちてしまった。

当然、自身にも心労が出始め、眠れない日や、母を救いたいが救えないという、

無力感などが、苦しみに変わり、生きにくくなる。

おそらく、自死を本格的に意識し始めたのは、この頃か。

不眠が長く続いているうちに、笑顔が日々の生活の中から消え、

音楽も聴かない、映画も見ない、テレビも見ない、

人の言葉が、そもそも心に届かない。

気がつけば、無力な人になっていた。

寝込み始めるまで、時間はそう要らず、眠れない状態で、

布団から出られなくなっていた。

毎日、部屋の天井を見つめながら、どんな終わり方をしようか、

ずっと考えていた。

父は、この状態にあっても、この状況を打開しようと、

奔走していたが、そもそも、メンタル疾患について何も知らなかったのと、

当時は、インターネットで調べ物というと、PCしかない時代。

思いだけでは、どうしようもない状況が続いた。

信じられないかもしれないが、この状況が、それから約8年も続いた。

その時の具体的な話は、また次回したいと思う。


8年経過した頃、

母の症状が少しだけ落ち着き始め、ごくごく一般的ではないものの、

何とか生活できるようになり、本当に嬉しく思ったほどだ。

父の元気もすっかり戻り、いつも通りの平常運転になった。

ただ、母は糖尿病をひどく患っていたので、

ここで、少し大きな事件が起きる。

ある日、体がフラついたり、うまく喋れない状態が発生する。

母は、インスリンを自分で打っていたのだが、

糖尿病の本当の怖さ、大変さは、

「血糖コントロール」

 にある。


血糖値を、いつものように計測すると、平均をやや下回る程度。

しかし、様子がおかしいので、近くの病院に行き、

診てもらおうとすると、もうすでに立ち上がれない状態になり、

車椅子を借りた。

病院で血糖値を計測すると、危険なレベルに。

『低血糖』

状態になったのである。

すぐにブドウ糖の注射などで、血糖値は上がったのだが、

もう大丈夫ですから、と言われ、帰された。

帰り支度の時も、僕は気が動転していたのか、

慌てていたのか、屈んだ際に、胸ポケットから、ガラケーを落とし、

壊してしまったほどだ。

帰りの道すがら、

何か食べた方がいいと思って、父と、近くのスーパーでありったけの

食料を買い込んだ。

ケーキに、お寿司に、焼肉、焼き鳥・・・

とにかく何でも買った。

帰宅したら、母は、お寿司を一貫だけ、食べて、静かに眠った。

その日は、お客さんが来る日で、父とお客さんと僕で、少し呑んだ。

お客さんが帰ったのは、午後10時過ぎ。

それでも、母は起きることもなく眠っていた。

僕は、今日は、疲れたのだろうと思い、自身も眠った。

深夜にトイレで目が覚めたが、母は、まだ眠っていた。

その時、若干の違和感があったが、あまり気にせず、

また眠りについた。



ーーーーーーーーーーーーー

朝は、父の大きな声で目が覚めた。

まるで、工事現場に居るかのような騒ぎであったと記憶している。

父が、何度声をかけても、起きず、母の目は半目を開けながら、

涙を流していた。

まるで、喋りたくても、喋れないような気すらした。

父は、すぐに、昨日の病院に電話をし、確認をすると、

すぐに救急車を呼んでくださいと言われたようだ。

救急車が到着するまで、10分ほどだったが、

生死に関わる状態だったようで、救急隊員のリアルな話が飛び交っていた。

「低血糖昏睡」

この状態まで悪化したのだ。

昨夜、眠ってしまった段階で気がつけば良かったのに、

僕も父も、低血糖昏睡という言葉すら知らなく、とにかくマズいことになったという事だけは、

救急隊員の雰囲気からも見てとれる。

担架で運ばれる際に、僕が救急車に乗ることになったのだが、

まだお酒が抜けておらず、メンタルのお薬も入っていたため、意識もぼーっとしており、

何が何だかわからないままであった。

父は、自分の車で後で追いかけるから、頼むと言うが、僕は、それでも、お薬とお酒で、

ぼーっとしており、頼りのガラケーも壊れていて、正直、役立たず者である。

家には、誰も居なくなるのに、

豪華な食事だけが並べられていた。

病院に着くと、

そのまま入院になる訳だが、しばらくは、ICUに居ることになった。

父も、さすがに、動揺しているが、先生と真剣に話をしている。

その間、いつどのような状態になるかわからないから、

携帯の電源、及び、電話はいつでも繋がるようにしておいて下さいと言われたが、

僕の携帯は壊れたまま。

仕方がないので、父のガラケーのみに、連絡が来るようになった。

この状況においても、僕のお薬は抜けておらず、

いまだに、頭がぼーっとしているのである。

一通りの説明を受けた後、帰宅途中に、車の中で、父が、こうで、あーでと、

僕に話しかけるのだが、すでに遅い時間だったため、お薬を飲まなきゃ、

お薬を飲まなきゃと、母のことを二の次にしてしまい、

命を左右するような状況で、正常な判断が出来ないほどに、お薬に依存していた。


帰宅し、

少し、乱れた家の中を整理した後、父は、仕事に出かけた。

僕は、この頃、メンタル悪化により、仕事を辞めたため、時間はあるのだが、

正直、息だけしている存在であり、ほとんど、廃人と化していた。

心が落ち着いて来たのは、深夜になった頃。


整理した中に、食料もあった。

メンタルが悪化していても、お腹は空くようだ。

ほとんど手のついていないお寿司を食べようと思い、1貫だけ食べた。

その時、気がついたら、自然と涙がこぼれ始めた。

ほどよく時間が経った頃には、泣いて泣いて、泣きまくった。

泣きながら、ご飯を食べると、中々喉を通過しなく、食べずらかったのを、

よく覚えている。

いつも居るはずの、母がそこにはもう居ない。

もう、死んでしまうのか・・・という、悲しさと、自分のメンタルの弱さを、

呪った。

涙が止まらないので、カーテンを何気なく、開けてみた。

すると、母が狂って割ったガラスを、テープで父が補修したものが見え、

さらに涙が出る。

申し訳なさと、苦しんでいる母に対して、

今まで、命を軽視し続けた自分が悔しくて、やるせなくて、時間を取り戻したかった。

涙は、まだまだ止まらない。

次に、押し入れに閉まってある、アルバムを開けてみた。

昔の母の写真がそこにはある。

それを見ながら、涙を堪えようとするが、全然止まらず、アルバムはすぐにびしょ濡れになった。

何とも言えない気持ちになり、仕事中に申し訳ないと思ったが、

父に電話をしようとするも、僕のガラケーが壊れていることに、そこで気がつき、

何もかも、ただただ、申し訳ない気持ちが、圧倒的で、何をやっているんだと思った。


そこです。

そこで、自身の命についての価値観が、ガラッと変わり、生き直すつもりになったのだ。

本気で、生き直そうと思わなければ、もっともっと、自身のメンタルは低下したまま、

いや、不遇の環境というものを跳ね除けようとする、心は生まれなかったと思っている。

命の価値。

生死感。

こういうものは、大きな、本当に大きな出来事がない限り、中々変わらないものと、

思うが、愛する人が、命を失おうとする状況で、ようやく気がついた感じだ。

この時は、

森山直太朗氏の、「花」を良く聴いていたと思う。

偶然、この時、放送されたあるドラマがあったのだが、その主題歌に起用されていた。

歌詞と、環境が見事に一致し、今もなお現在、たまに聴くと涙腺がやばい。

生き直そうと、思えば、どの距離からでも取り戻せると思うが、

今は、不運にも、ある病気で足が不自由になり、取り戻せていないように思われるかも知れないが、

この時の自分に比べれば、現在は、100万倍マシになったものだ。

命を投げ出すということは、

愛する人にも、今まで関わってくれた人達にも、「刃」を向けるようなものだと知ってほしい。

裏切りではなく、自分の命を終わらせるのと同時に、

関わってくれた人達の「思い出」「存在」を、殺すことも同じだということを。


少し、厳しい言い方かも知れないが、

僕が、愛する人や、関わってくれた、大事な大事な人達が、自ら命を絶とうとするならば、

こう思うことだろう。


そんな思いを抱きながら、

ICUに、母が居るうちに、ガラケーを、修理に出しに行った。

続きなどは、また、今度。

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