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Twitterで言葉の破片を書いていると思考が断片化する気がしたのでnoteを始める
noteを始めた。Twitterをしているだけでは考える力が弱くなるんじゃないだろうか、と思ったからだ。
Twitterはフローのメディアである。タイムラインを言葉の破片(まさに言の葉っぱ)が流れていく。
私はよく人文学ちっくなことについてツイートする。なんでも人文学ちっくに考えてしまう人間だからだ。その良し悪しはともかく、ツイートするとき、基本的には一文、長くなっても二、三文で思ったことを書く。
しかし、これは言葉の破片に過ぎない。言葉の破片を書き続けることによって思考は断片化する。
Twitterの140字では、どのようなことを思いついたのか、その背景や文脈は何か、具体的にはどういうことなのか、といったことを書き切ることはできない。そのため、例えば「Twitterは思考を断片化するんじゃないかと思う」と、キャッチフレーズ的な結論だけを書いてしまう。
しかし、思考が断片化するんじゃないかと思うに至るには、メディアによって人間の思考様式が変わるんじゃないかとか、人間の思考というのは言語によって、また、言語をどう使用するかによって変わってくるんじゃないかといった発想がある。また、上に書いたフローのメディアである、だとか、Twitterは無関係なテクストが隣り合っていて、マクルーハンの議論で言うところのモザイク的メディアだという話も関わってくる。
そして、実際にTwitterに書いた曖昧なキャッチフレーズ的結論について、よく考えたらわけわかんないな、と思った体験があったことがこの「Twitterは思考を断片化するんじゃないかと思う」というツイートに連なっている。Twitter的な思考をすることで社会全体が断片化した思考をするように変わっていっていく可能性だってあるよね、と社会につなげていくこと、そういったことも連なっているのだ。
これらの背景、具体的経験、社会的議論への繋がりといったものがあって初めて、「Twitterは思考を断片化するんじゃないかと思う」という文は意味を持つ。言葉は、文は、文脈に支えられることによって意味を持つ存在なのだ。
しかし、スレッドで長々と書く訳にもいかず、というよりは、一々スレッドにするのは面倒臭い。それに他のTwitterユーザも「文脈が分かる奴が分かればいいから」という感じで結論的な文だけのツイートを書いている。なので、中々ちゃんと自分が考えたことをツイートする気にはならない。
しかし、言葉の破片だけのツイートをしているとクリアな思考がだんだんできなくなってくるように思えてくる気がした。何となく、ちゃんと筋道を立てて分かりやすく話すことが前より難しいように感じたのだ。これは、何となくまともそうな結論っぽいフレーズを言っておけば、ちゃんと考えた気になってしまうからなのではないだろうか。
そうであるならば、ちゃんと長文を書くべきではないか。
というわけで、noteを始めました。
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