見出し画像

【日々】大地から宇宙へ、旅から日常へ|二〇二三年九月




二〇二三年九月九日

 うしろ姿のキュートな女の子が歩いている。眺めつつ歩いていると、うしろから勇猛そうな、でも声変わりのしていない芯の細い声が飛んできて、ユニホーム姿の野球少年たちが自転車で次々わたしを追い越してゆく。精悍に焼けた肌と線の細いからだ。そのかれらのほとんどが、前をゆく女の子の顔を追い越しざまに振り向いて確認していったのをみて笑ってしまった。わかるよ。つい見ちゃうよね。駅へ急ぐわたしの脚もすぐに女の子との距離を縮めてゆく。右手から大きく弧を描くように追い抜いてゆく。もちろん、振りむくことはしない。




二〇二三年九月十日

 吉祥寺。さかざきちはるさんのペンギンたちをみる。いつもの「MORE」でランチ。つい、またランチビール。きょうも最近みるようになった、チリビのmotoちゃんを大人しくしたみたいな子がサーヴしている。スーツケースを買った。内側の青いストライプがさわやかで、夏色のワンピースみたいでかわいい。


 日がくれたころおもむろに立ち上がって再び電車に乗る。もう風がひんやり、きもちいい。国立駅前の大学通りには静かにサックスとギターを鳴らすおじさまがふたり。宵闇と木々がとっぷりと黒をつくり、そこに街灯の薄明かりがランプ色に滲んでいる。あのスタバのテラス席なら、この色合いの中に身を沈めながら、ふたりの奏でる音を静かに聴けるのか。絵になりすぎてちょっと悔しい。

 谷保のダイヤ街が見えてきたら、ひとつ、ふたつ、深呼吸。いまだにわたしは、インターンとしてここに来たときと同じくらい、毎回なにかに緊張している。それはきょうは誰がいるのかなとか、うまく喋れるかなとか、ちゃんと過ごせるかなとか、いろんなことが不安だからなのだと思う。わたしはここにくるとき、いつも自信がない。店の外に出ている「良夜」の看板を眺めるふりをしてひと呼吸おいてから、小鳥書房の扉を開けた。

 次にその扉を内側から開けたのは思っていたよりずっと深い時間で、そのときのわたしは来る前に想像したよりずっと笑顔で、もしかしてうまく落ち着けなくてすぐに引き揚げることになるかなとか、そんな杞憂がアホくさくなる、そんな夜だった。わたしはここで、ずっと、こういう時間を過ごしてみたかったんだと思う。もしかして、ちいさな夢が叶ったのかもしれない。いろいろなことを話し、聴き、知って、出会い、そして飲んだけれど、それを具体的に書くことはもうできないし、したくない。出来事と感情の、つまらない、野暮な羅列に堕してしまうだろうから。あんなに美しいものをそんなふうに残すくらいなら、褪せるまでこころの中に綴じておくほうがいい。




二〇二三年九月十三日

 飛行機の離陸前はいつもおちつかない。滑走路への移動がはじまると、そわそわしてしまう。急にエンジンが唸って機体の振動が強くなる。翼の先がぶるんぶるん上下する。どきどきする。でも結構あっさり、地表を離れてしまうのだよね。いつもこんなふうだったっけ? こんどはちょっと拍子抜けしている。ぐいっと旋回するあいだ、窓からはるか下、東京湾にいくつも行き交う貨物船をながめる。巨大都市はもう盛んに活動を始めている。旋回と上昇がうむ重力を感じながら、離陸前から機体安定までのこのどきどきは、ジェットコースターにのるときに感じるそれと同じ種類のものだなと気づく。わたしは「スペース・マウンテン」ですら、再起不能になる男だからなあ。


 暗い機内に、朝の太陽がはなつ白い光線が差す。刺してくる。ちいさなまるい窓が薄暗がりの中でまっしろに浮かび上がっている。その向こうに、うすくひろがる雲を下地に、透き通るような水色、そして濃い青へのグラデーションが見える。宇宙との境目を、とんでいる。

 空からはるか下方の陸地を眺める。半島の細い突端とかみていると、あそこにはだれかがいるんだろうか、どんなふうに生きているんだろうかと考えて、そのあとなにかざあっと心細い感じが広がってくるのはどうしてだろう。不安になる。ひとでありながら神の視点を得ることで、おのれの小ささと無力さを知るからだろうか。どこまでも広がる海面は、きめの細かいじゅうたんにしかみえない。冗談みたいな景色。




二〇二三年九月十五日

 目を覚ますと、巨大な窓がぼんやりあわく光っている。五時前。ふだん絶対におきられないような時間に目が覚めたのは、ここが旅先だからか、このうつくしい光のせいか。広縁に出て、朝焼けをぼうっと眺める。淡いピンク。白。水色。パステルに、ゆっくりと滲むようにうつろってゆく。高く鳴きながら飛んでゆくカモメ。海面すれすれを飛ぶ二羽の海鳥。遠くに出てゆく小舟たち。濃い青から、波打ち際でうつくしいエメラルドにかわる海。イヤホンをつける。『hopi』、『朝もや』、『03』、『おきてがみ』。合間合間に聴こえる波の音。『朝もや』で、どうしてだか大学受験浪人時代のことを思い出す。まだ未来があったあのころ、よくゆずを聴いていたからかもしれない。また『hopi』、『Hidden Notes』。


 目の前いっぱいに広がる津軽海峡と波の音。少し黒く霞んでみえている、本土の影。みつめていると、自然の大きさ恐ろしさがじわりと背後に迫るようなかんじがある。きのうの大雨のことも、頭にあるのかもしれない。むかし八丈の孤島にいったときにも感じた、巨大すぎるものの前にたったひとり、そんなきもちをこの蝦夷の地にきても感じる。近いうちにできれば、青森側からも津軽海峡を眺めてみたいとおもった。




二〇二三年九月十六日

 青函トンネルも、はやぶさ号が突っ走ってゆく東北の雄大な景色も、前に味わったものよりずっと退屈に感じた。あのときが往路で、いまが復路だからというのはあるかもしれない。あっさりとターミナルについて、ホームに降りた途端におそう息苦しいような暑さ。重い荷物をひきずりながら、めいめい自分勝手な人ごみや乱暴なクルマにさっそく気分を害して、帰ってきたことを思い知る。


 日常というのは、生活というのは、基本的にイライラとか嫌な気持ちとかが目立ちやすくて、でもそれを呑みこんでもなお続けられているということは、全体でみるときっと居心地は悪くないのだとおもう。それはその日常を、生活を離れて捨ててみてはじめてわかる。本当に耐えられなかったら、きっと続いていない。街も、暮らしも、いっしょに過ごす人も、みんなそう。きっと。

生活。皿洗うとか洗濯とか、いつまでこれ続けなきゃいけないんだろうってぼんやり思うことはよくあって、でもその単調な時間の連続の中でだって、着実にいろんなことは変化していて、未来だと思っていた日もいつの間にか昨日になっていたりする。

日記 0902-0912|眠




ある日の来客・無頼のカモメ氏


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?