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きのこ帝国 「夏の夜の街」

花火を粋に感じないのは、表現者として失格なのだろうか。

打ち上げ花火を無理やり美しく見ていることに気がついてしまった。

あ、花火は美しいものです。これは間違いないことです。

何というか、携帯で撮った写真のような感覚だ。

昨今、携帯電話のカメラは著しいほどに精度を上げ、ポートレートやらタイムラプスやら知らなかったカタカナが当たり前に公用語になった。

それに伴い、フィルターというものが流行った。

フーディ?ユーライク?たぶん私が知ってるものだけでも中高生にとっては古いものだろうけども、これまた知らないカタカナがものすごい勢いで普及した。

更にあえて加工せずにiPhoneの画質だけで勝負する強者なんかも現れたりした。

このように、写真ってものはここ数年でものすごい勢いで普及したし、それによって生活の一部のようなものになった。

日常ってのはあるだけで美しいし、それを切り取って永遠に残せる写真は素晴らしいものだ。そしてそれを更に美しくしてしまうのがフィルター。

あの日あの時のあの子の笑顔をより鮮明に輝かしく、たまに後ろをボカしたり、猫にしたり犬にしたり、私もかなりお世話になっている。


「日常」を花火とするなら、私のフィルターは心情だろうか。

私は目の前で花火が飛ぶのを、夏の風物詩だとか、横にいるあなたとか、夏が終わってしまうようになんて儚いんだろかとか、余計な言葉を飾り付けながら見てしまっていることに気がついたのだ。

花火ってもっと、純粋だったはずなのに。


大学1年生の夏の暮れ、私は横浜の赤レンガ倉庫郡から見渡せる花火大会を見にいった。

それまで、地元の人だけが集まって、密やかに、しかしとても賑やかな花火大会しか見てこなかった私にとって、初めて参加した都会の花火大会というものに度肝を抜かれた。

まず人が多い。

見ている間はまだ良かったが、各所で散り散りに見ていた花火っ子達が最後の打ち上げ花火が舞い終わった瞬間に桜木町駅やみなとみらい駅にごった返すのである。

まだ駅前だけならいいが、駅へ向かう道の何百メートルという距離が人で埋め尽くされ、まるで牛歩戦術のようなスピードで進む行列に都会の夏の洗礼を受けたのであった。

花火は綺麗だった。しかし、やはり他人が気になる。

なんだかんだ見ている時も、好みの花火が上がった時に限って前の人が立ち上がったり、隣の人にぶつからないように配慮しながら花火を注視しなければならないのは些かシューティングゲームのように感じてしまって冷めてしまった。

そんな状況であるから、帰りの電車の中で、せっかく苦労して行った花火大会の思い出を美化しようと脳が頑張ってしまう。

今日見た花火に合わせたBGMを選んだりして無理やりセンチメンタルにあの時間を閉じ込めてしまおうとするからまた冷めた。

実家のベランダからは毎年地元の小さな花火が夏の暮れ(ほぼ秋)に見ることができた。

9月半ばに行われるその大会では、道内最大の三尺玉が目玉だ。色とりどりの花火が打ち上がっては海の沖の方に魚が泳いで行くように消えていく。普段は漁港という役割であるその場所が、その一夜だけはさまざまな人を受け入れ、感動させる場所となるのだ。

学校生活が忙しくなっても、見晴らしの良いところで打ち上げられるそれは部活帰りに自転車を走らせていればどこかしらで見ることができたし、音を聞くだけで私のその年の夏を終わりを教えてくれるようなものになっていた。

余計な言葉や音楽などなしに、純粋にそこに美しいものがあるということを追い求めるのはわがままなのだろうか。

結局、小さな頃から見てきたものにノスタルジィを感じているのは確かだが、夏が暮れていくときの合図はいつだってあの音がヨーイドンだったのだ。

きのこ帝国 「夏の夜の街」

きのこ帝国に出会ったのは高校生の夏だ。

当時交流のあったバンド仲間がTwitterで「東京」のMVについて呟いており、その名前と曲タイトルだけスクロールされる画面の中ではっきりと認識し覚えていた。

直接ちゃんとその曲を聞けたのはラジオだった。

たぶんSCHOOL OF ROCKだったと記憶しているが、FMで出会ったその音楽は私が知らない生活や街の中に連れ出してくれた。

そこから数年、夏の夜の街を歩く時には、私のBGMはだいたいこれになった。

2015年リリース、「猫とアレルギー」(表題曲もいいよね)に収録されている『夏の夜の街』。

ボーカルである佐藤さん(佐藤千亜妃)作詞作曲で「東京」と同じくそこにある生活、街、匂いや色が彼女の感性を通して感じることができる一曲だ。

君に借りた紙ジャケのCANのアルバムを                  破いちゃったことがずっとどうしても言えなかった

「君」という人物との思い出からなるこの曲では、あの日あの時のあの街での「君」が鍵となり様々な記憶が語られる。

思い出なんてものはそんなもので、ちゃんと段ボールにつめて閉まっておいても、ちょっと片付けしようと触っただけでひっくり返ってしまう。

例えば、街中で聞いた曲や手に取った本、テレビで流れたあの風景、人によってそれがCANのアルバムだったりスミスのTシャツだったりするのである。

特別私にCANのアルバムにまつわる思い出があるわけではない。それでも、こうして強い共感性が生まれるのは恐らくタイトルのイメージがあるだろう。

「夏の夜の街」という具体的でありながら抽象的なタイトルは、他人の思い出と紐付きやすい。

曲中のエピソードが身に覚えがなくてもそれに似た感覚や香りが個々の持っている情景を引きずり出すのだ。

ばらばらの歩幅で彷徨った夜はもう終わってしまった
今はもう懐かしい 懐かしいな 君と夏の夜の街

この曲の特徴としてサビではなくEDMでいうドロップのようなギターリフがある。

耳に残るそのフレーズもまた「君と夏の夜の街」という歌詞と相まって今にも消えてしまいそうな頭の中のあの街を浮かばせる。

この二人の関係は「終わってしまった」とあるように、その夜が明けてしまえばもう懐かしむことしかできなくなっているのだ。

私が純粋に花火を見つめ、聞き、そして感動していたあの夏は終わったのであり、もう懐かしむことしかできない過去である。

だから、また来年には花火を見てみようと思う。

このエッセイを書いたおかげで、無駄なフィルターがなくなったような気がするからだ。

たぶん、あの街じゃなくてもこれからももっと色んな街や人に会うことができるのだ。

花火の音、今年は聞けなかったけど、皆さんの夏はちゃんと終わりましたでしょうか。

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