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望んでいたひとり時間に改めて知る「必要とされる/利用される幸せ」

この週末とつぜん自由な時間ができた。
妻と娘が実家で過ごしたからだ。
僕も誘われたが、ここのところ少し体調が悪いことと、締め切りが迫る大学のレポートをしたいから行かないことにした。

久しぶりに土日をひとりですごしている。
ひとりの時間は大好きだ。日々できない長距離ランニングをしつつ、大学のレポートを一気に仕上げようと意気込んだ。

普段の土日は、ほとんどを家族3人ですごす。自由な時間は娘を寝かせた後の9時半から2時間程度だ。その過ごし方に満足しながら、すこしだけ不満も感じていた。もっと自分の自由な時間が欲しい、という不満だ

今回、完全に自由な2日間をもらった。
実際に、やろうとしていたことは予定以上にできた。当初の予定に加えて、友人と久しぶりの食事もした。怠惰な自分としてはほめてやりたいほどだ。

だけど同時に、何か足りないものを感じた
それは、最近読んだSF『タイタンの妖女』の主要なテーマの一つだ。

「わたしを利用してくれてありがとう」
「たとえ、わたしが利用されたがらなかったにしても」

カート・ヴォネガット・ジュニア 『タイタンの妖女』

僕たちは、利用されること、すこしオブラートに包んでいうと役に立つことを喜ぶ生き物なのだろう。それがどんな目的であろうが、また自分が利用されることを望まなくても。

普段、もっと自由な時間が欲しいや、仕事の内容についての小さな不満を感じることがある。だけど、普段気が付かないだけで、実は自分が必要とされている/利用されているということは喜ばしいことだ

一緒にいてくれる家族や友人がいること、仕事をくれる会社や同僚がいることは幸せなことだ。

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