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嘘を重ねて生きていく

先日、リプリーという映画を見た。
主人公がある一つの嘘をきっかけに嘘を積み重ね、引き返すことができなくなる映画だ。こんなにヒヤヒヤする映画は初めてだった。

ヒヤヒヤしたのは、僕の人生と重なるからだ。
僕も、映画のマット・デイモンと同じように小さな嘘を重ねて、ギリギリバランスを保っている。

僕の人生はジェンガと同じだ。
もともとの自分の一部を抜いて、上に積み重ねていく。
進めば進むほど、バランスが悪くなって、最後にバラバラに崩れる。

嘘の種類

嘘にはその影響の仕方の面で、その後ほとんど影響を与えないものから、一つの嘘で大きな影響を与えるもの、過去の嘘のために嘘を追加する雪だるま形式に膨らんでいくものがある。

動機の面では、自己正当化するものと、分不相応なことをするものがある。
自分を正当化するのは、甘いものを控えるべきなのに今日だけは特別に食べようというものから、犯人なのに犯人ではないということなどだ。

今回考えたいのは、分不相応なことをする、という嘘だ。
これが、自分とリプリーの共通点だし、どんどん膨れていつか抱えきれなくなるのに気づきにくい危険なものだからだ。

分不相応な生活

僕は今、妻の実家の別荘にいる。
他人の裕福さに乗っかっている。別荘は僕自身とは無縁だ。
近くで散歩や買い物するときなど、自分はここにいるべきでないと思う。
でも、恐ろしいのはいつの間にかその違和感を忘れてしまうことだ。
そこに住んでいる人のように平気で振る舞ってしまうようになる。

奮発して旅行に行ったときも同じだ。
自分はこんなにもてなされるに値しない人間だ。
宿での贅沢は望んでいたはずなのに、心地よくない

僕の生活のほとんどは、同じようなものだ。
大学に通えたのは、親が苦しい中お金を出してくれたから。
それなりに安定した生活は、就活で面接官に受け入れられたから。
妻と出会えたのは、会社の先輩が妻を紹介してくれたから。
僕が生まれたのは、父と母がいたから。

全部偶然と周りのおかげなのに、それで得た状態を恥ずかしげもなく自分のものとして生活している。
それはリプリーと何も変わらない。

感謝して報いる

じゃあどうしたらいいのか。
嘘だからって悪いものではない。

良くないのは、自分がたくさんの物をもらっている、たくさんの意志や偶然に支えられていることをないがしろにしていることだ。

これらに感謝して、返すこと。もらった人に直接返すのはもちろんだけど、社会全体に返そう。

こうすれば、取り返しのつかない嘘だらけの人生でも、生きていけそうだ。

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