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空不動先生 ご著書の紹介 その6-2

  空不動先生(岩根和郎先生)のご著書『 人間やりなおし 復刻版
(2017年02月発行)から、「序文」(1月7日記事 のつづき)をご紹介させて頂きます。

   以下は 【 献文舎オンラインストア 】よりの抜粋 です。
文章中の”私”とは、著者である 空不動(岩根和郎)先生のことです

人間やりなおし 復刻版 序文 (1月7日記事 のつづき)

 私は「超越的存在」を求める入り口の段階で、既にこのように最も本質的矛盾に突き当たり、それを到底宗教の範疇(はんちゅう)では解決できないことを知り、かえって苦しんでしまっていたものである。

 それは私でなくても、真理に素直な人であるなら、宗教の中に長くいるとその独善的な自己中心の世界観にうんざりし、何とかそこから脱却したいと悩むはずである。

 当時の私は、絶対普遍の存在であるべき「超越的存在」を自分達の勢力の中に取りこみ、真理の普遍性をわざわざ捨て去って独善の中に安住し、そのことで信仰心を強め、我田引水のへ理屈を発明して妙に有り難がってみたり、他との比較の優越感にどっぷり浸り切ることで救われを得ようとすることでは、到底満足のできない部類の人間であった。

 また私が、多くの道を求め真の幸福を求める人々と話してみて感じたことは、人知を越えた「超越的存在」を直感していながら宗教には決して近づこうとしないでいる人達が多くいる、ということである。

 つまり宗教にはどこか否定的であり嫌悪感さえ持っていながら、「超越的存在」を明らかに意識して真摯に生きている知性的な人達は案外多いのである。それは宗教に対して当時の私と同じ問題で悩む故であろう。

 はたして現代において多くの宗教は、真摯に道を求め真の幸福を求めるそのような人達に対して、本質的に矛盾のない解決を与えるだけの力と普遍性を持ち合わせているであろうか。

 普遍の真理を求め、『人間やりなおし』によって運命的困難を乗り越えようとする当時の私にとっては、人知を越える「超越的存在」を心のどこかで確かに感じていたからこそ、「超越的存在」を前提とした価値体系が存在するならば、それはある宗教のように自己中心の世界観や独善的価値観であってはならず、普遍的でなければならず、排他的であってはならないと私は強く思い続けていたものである。このように当時の私の求めているものは、もはや宗教とは言えないものであった。

 私はそれ以来、人類普遍の価値体系をもたらす「超越的存在」はもはや宗教の中に居られるはずはないと確信して、まだ見ぬ「超越的存在」に対してこれらの疑問に解決の道を示して下さるように、そして「超越的存在」による絶対普遍の価値体系を示して下さるように、そしてその価値体系に沿った『人間やりなおし』の道を示して下さるように、真剣に祈り続けたのである。

 そしてその私の祈りは、結果的に最も本質的なところでかなえられていくことになった。

 それは私が初めに期待していたこと、即ち書物や言葉で教えて頂くというスタイルではなくて、結局私自身が「超越的存在」の直接の強い指導の下に、普遍の真理を得る道を開拓し、その道に沿った『人間やりなおし』を実践することによって、真の幸福を得る方法論を体得するという思いがけない運命に導かれて行くことになったのである。

 結果から言うならば、「超越的存在」は私の確信の通り、まさしく宗教の外側に厳然として居られたのである。

 そして普遍の真理を得てみれば世の中にはすばらしい宗教も当然有ったし、独善と見えた宗教も文化の中でそれなりの部分の働きを十分していることが理解できたのである。ただしそれらの宗教は、文化全体の中で自らの立場を確立できない、傲慢で危険な姿のままではあるが。

(次回へつづく)