見出し画像

「人間らしく生きたわ〜。」

「人間らしく生きたわ〜。」
死ぬ前に、自分に対してそんな実感があったら、わたしは誇らしい。

“人間らしいとは?” という問いは生きている限り続く。
答えはないから、日々深めたり拡げたりしながら、刷新し続けていこう。

今日のわたしにとっての人間らしさって?
キーポイントとなっているのは、
・人として扱われない
・暴言や暴力と呼ばれるような態度
・自動的に生きている
という人間らしさからかけ離れていると思うこと。

人として扱われないというのは、他からどう扱われるかということよりも、自分自身が自分を人として扱っているかどうかが大切。
自分の気持ちを無視している状態では、人として扱っているとは言えない。感じていることを自分自身がキャッチしている状態は、人間らしいなと思う。
茨城のりこさんの『自分の感受性くらい』という詩が思い出される。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茨城のりこ

暴言や暴力と呼ばれる振る舞いも、人間らしさを欠く行為だと思う。人間には感じ、考え、行動する能力、何度も生まれ変わる中で刻まれてきた善悪を判断する感覚が備わっているから。
暴言や暴力という表現に身を委ねるのは、誰よりも自分に対して悲しさを覚える。幸せとは到底かけ離れた行為だと思う。たが、無知ゆえにそのような方法でしか表現ができないところも人間らしいといえばそうなのかもしれない。
ただ、傷つけあうことを望んで生まれてきた人はいない。傷つけあうことがどんなに愚かなことかを学ぶために体験している人はいるかもしれない。
伝え合い、理解し合うこと、共感することがどれだけしあわせなことかを体験することは人間らしい生き方だなぁと思う。

自動的に生きる。
主体的に生きることが人間らしさ。
映画『フリーガイ』を観て、繰り返すことの愚かさや退屈さ、レベルアップするために自ら新たなチャレンジをし続ける充足感に共感はするものの、いざ自分の人生となると、「あら?また繰り返してるわ!」の連続。
最も心に残ったシーンは、主人公がバディに対して「これはリアルではないとしたら?」と問うシーン。
バディは、「リアルかどうかの何が重要なのか?困っている君を前に助けたいと思う俺がいる。これ以上に重要なことがあるか?」というようなことを言う。
このシーンを観てすぐに浮かんだのは、あっこというひと。(人間の魂の成長を望み、彼女自身も含め人の成長をサポートし続けているひとだ。)
今日も彼女は、自分の心のままに一瞬一瞬を如何に大切生きるか?を実践しており、そんな彼女に助けられた1日だった。
繰り返しではないルートがあることを、わたしが理解するように伴走しながら示す彼女の姿は、美しいと感じた。
愛の選択をしているときは、寧ろ繰り返しようがないということを生き方で語っている人だ。
恐れからの選択をすることも人間らしさといえばそうなのかもしれない。
となると。
恐れからの選択では満足しないことを知って、愛の選択をすることに何度もチャレンジし続けることが人間らしさ、かな。


今日は、自分の事業を通して目標としていることが明らかとなり、いくつかビジョンがみえてきた。
そのひとつに自己肯定感を高めたい人がお客さんとなっていく未来がある。
最近、毎朝「わたしがわたしで生まれることを望んで生まれてきたんだもんな。」というセリフが湧いてくる。
わたしがわたしであることを歓迎していない自分がいることを実感すると、胸のあたりが苦しくなる。感じ続けることを避けたくなる。今回はないことにせず、感じきってみよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?