「脱常論」

「勉強」が好きな人、嫌いな人居るとは思う。
科目の不得意得意や長い文章を
見続けているのが辛いなど人によって
理由は様々だがネグレスト家庭で歪んでから
ひょっとしたらこんな理由で勉強という
行為自体が嫌いな人が居るかもしれないと
考えるようになった。
「集中力がない」「集中力が続かない」と

「勉強」することに抵抗があるという人も
実はそういう人にだって
楽器などの音楽に精通している、
スポーツが好きでアウトドアな性格、
絵を描くのが好きで見てるのも好きなど
特技や趣味が高じて意外とそこからその道の
職業に行けそうなポテンシャルを持っている
人が意外と居たりする。

そしてそういうことに集中することは
周りの目を気にしないで
既に持っている才能を伸ばす
重要な役割を担っている。

だが私のNOTEでも書いてきたように
人の持っている才能は否定されたり
己に没頭しようにも「集中できない」環境に
置かれたりするとごく一般の人の持っている
最低限の知力はおろか感覚が正常で
なくなってしまったり普遍な日常の
行為でさえも疲れてできなくなる程に
心身がボロボロにされてしまう。

とあるサッカー選手がどんなに快適で
環境のいい施設で育成しても誰もが
名プレイヤーになるとは限らないと
話していたが私ほどの最低最悪な
ネグレスト家庭に育ってしまえば
全てがそんな育て方でいいはずがない。
あくまでも家も最低限「寝れる」場所であり
歪んでいない家庭だからこそ言えた話だ。

正直だいぶ名の知れた選手なので
全てのプレイヤーの総意のような発言には
私の尊厳が潰されてしまうが
やはりまともに才能を育成する機関は
まともな施設でなくてはならないはずだ。

ところで私はフリースクール等の非通学系の教育スタイル・環境には大賛成派だ。
公立私立とも一般の通学するスタイルの
学校では社会に立つ誠実な清い人間を
育むどころかクラスメートなどからの
いじめの温床や個性を潰される、
給食などの「統一」を強要されるスタイルなど
どう考えてもネット社会となった今には
この「体制」には似つかわしくない。

中学校頃から大学式の選択性の授業
などを真似するべきだと思う。

今までの日本の教育システムを見ると
明らかなるエスカレーター形式なのが
見てとれる。

成績がよくてもやっと次の学年への切符を
掴めるだけで私のように「環境」によって
持っていた知識や才能、学ぶ意欲
そして「集中力」を奪われた者にとって
そんなエスカレーター教育で学んだ知識や
観点からしか批判できない者こそ
知見が乏しい。

今後数百年占いだと「風の時代」だというが
コンテンツの分散化や収益のスタイルの
変化だけでなく凝り固まっていたこの国の
習慣悪習だって見直されなければならない。

人間集中さえできれば思わぬ力を発揮する、
そして苦手だった物さえも好きの延長線上で
得意になることだってあるのだ。

わざわざ席で決められた時間
黒板の内容をノートに移すことが
「理解する」ことなのか?
教科書やテストに載っている英語が
本当に海外でもそのまま通用するのか?
自分にとって有益でない同級生と
無益な茶番をするために学校はあるのか?

我々は信じてきたものを疑う必要がある。




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