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アートに関する覚書12.ポップアートの復讐、そして反省へ。

クエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)を鑑賞していて、考えたことがある。

日本にとってのポップアートと欧米諸国のそれは、全くといっていいほどに背負う重さが違うということ。


本作品では、マカロニ·ウェスタンやグロ·ナンセンスといったサブカルチャーの要素をコラージュし、キッチュな雰囲気を漂わせている。これは『パルプ·フィクション』(1994年)などでも用いられたタランティーノの真骨頂といえる方法だ。
 
しかし、この作品はサブカルチャーの底流にどす黒い負の歴史という文脈が否応なしに横たわっている。

アメリカの白人が行ってきた黒人奴隷への残虐な暴力が、黒人や移民によって復讐という形で執行される。その暴力的な描写は目を覆いたくなるほどだ。

アメリカはピルグリムファーザーズの入植以来、その残虐な暴力によって大文字の「国家」を、余りにも性急に築こうとしてきた。そして、その性急さの代償が、先住民や移民という無関係な命によって贖われた。

本作ではアメリカが、血塗られた歴史への贖罪を、ハリウッド映画において果たそうとした点において重要だ。


では、そうした文脈の中で、ポップアートにおける手法が機能していると言えるか。

ポップアートは、強烈にキッチュな表層を露にすることによって、欲望と暴力に依存する存在の軽さを逆照射させる手法と現在の私は捉えている。本作でB級映画とされた作品の素材を独立した物語から断絶して切り貼りする。

 現代アートにおけるジェフ·クーンズやバンクシーが仮にポップ·アートの体現者とすれば、タランティーノの位置付けも明らかになってくる。クーンズはブランド品やポルノ作品を美術館という権威の箱物に収め、バンクシーはオークションで絵画を切り刻むというパフォーマンスをする。いずれにしても欧米諸国が語ってきた大文字の「芸術」が、如何に醜悪な欲望に呑み込まれているのかということを露呈させている。

本作に関連して言えば、タランティーノ自身がレンタルビデオ屋で働く映画オタクであったという事実だ。彼が大文字の「歴史」に対する復讐を、露悪的に果たすことそのものがポップアート的と言っても良いかもしれない。


こうした欧米諸国のポップアートと現代日本のポップアートを単純に比較したとき、余りにもその軽さを感じざるを得ない。

スーパーフラットなどが伝統的な日本へ回帰していくことは、安易な過去の同語反復ではないか。また、キャラクターや大量生産品のモチーフは、単なる意匠の借り物に過ぎないのではないか。蓮實重彦などが表層批評宣言をしてから、その理論的(?)な後ろ楯があるという錯覚から抜け出せていないのではないか。

しかし、安易な伝統への追随は、満州事変や南進などの歴史を忘却し、岡倉天心などがしてきたような文化による植民地主義や単一の民族主義の正当化を繰り返す可能性がある。また、安易な表層への耽溺は、ポップアートが果たしてきた露悪的な社会批判ではなく、寧ろその社会状況の悪化に資することになっていないか。

特にポップアートは、キャッチーな見た目から手を出しやすそうに誤解される。それ故に厄介な代物なのである。


但し、比較を通じて日本のポップアートの安易さを批判したところで、欧米諸国のポップアートが"善"であると大手を振って言うこともできない。

"歴史"、"社会"という文脈は、それを語るだけで恰も深さを持った作品のように誤解させてしまう力がある。換言すれば、何らかの文脈に乗ってさえいれば質的なものはどうでも良いという勘違いが誘発されてしまうということだ。近年、欧米諸国で行われる展覧会に訪れた作家の話を聞いていても、益々そうした傾向に拍車がかかっていることが分かってきた。

先進国と言われる国々において、地縁も、血縁も、そして、記憶も喪失され始めている。そうした時代に、果たして文脈に乗って社会課題のために価値を貫徹する作品を作れるであろうか。


このアートの飽和で閉塞した中で、敢えてアートを継続させる者に残されている道は、改めて"芸術"という枠組みでの自己運動を真剣に考えねばならないのでは。

父殺しのような大きな物語の要素を、意図的に埋め込む人工的浄化作用は不要だ。それは批評家や鑑賞者に委ねればよい。

寧ろ、この自己運動は作者ですら作品に断絶されるような瞬間に根差している。そして、物が物の間で関係を露呈するような複数の意味の可能性を含んだ場所になる。そうした方法から改めて出発していくことが必要な時なのかもしれない。

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