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ソルフェージュ能力・音感は大人になっても育てられるのか?②

この記事は、前回からの続きものです。よければ、前回の記事も併せてご覧ください。


大人、もとい中高生以降のソルフェージュ能力を育てる難しさ

さて、広い意味でのソルフェージュ能力を育てることは、大人になってからでも十分可能であることは既に述べました。そうでなければ、ヤマハの音楽教室、なんて成り立つはずがありません(楽器の上達には必然的にソルフェージュ能力の向上が必要)。

しかし、実際に私が学生を相手にしてみると、中高生以降のソルフェージュ能力を育てることに大きな困難を感じます。楽譜のルールや音楽理論といった、紙の上で完結することについては意外と大丈夫ですが、実際の音を聴いたり、出したりする際に途端に難しくなります。

その要因は、学習者側および教える側の両面にみられると考えます。

学習者側① 音高の認知特性の変化

これは絶対音感や言語の学習論で言われることです。

例えば、ある言語を母語レベルで身に付けるのは幼少期のうちでなければなりません。実際、英会話教室は近年子供の習い事として重要視されつつありますね。これはなぜかというと、物事の認知の仕方にある種のショートカットが起こるからです。

人間は、ある物事を認知する際、それそのものを認知することはせず、大抵既知の事と結びつけ、比較して認知します。そのものを認知することは非常に負荷が大きいのですが、これをやり遂げるのが幼少期なのです。

絶対音感の学習においても、音そのものを比較せずに、絶対音として認知できるのは幼少期だと考えられます。成長し、ショートカットができるようになると、音そのものを認知するという非効率的なことはもはやできなくなるのです。

絶対音感に限らず、音に対するベースとなる認識を身に付けやすいのは幼少期です。早期教育において得たベースがその後の音楽学習に大きな影響を及ぼすため、中高生以降に新たにソルフェージュ能力をつけることには大きな困難が伴うのです。

学習者側② 「歌う」という事への抵抗感

ソルフェージュの練習では歌う事が重要です。歌うという事は言語学習でいう所の「話す」にあたる、音情報としての音楽をアウトプットする行為の最たるものです。

アウトプットするという意味では楽器の演奏もそうですが、歌は圧倒的に肉体性に近接しており、自分の肉体の振動が周囲と共鳴する感覚こそが、音感の最も根源的な部分と言って過言ではないでしょう。

しかし、歌は肉体に近接するがゆえに、精神にも近接します。
これは完全に私の主観ですが、楽器よりも歌が上手であることの方が、よりその人そのものをイメージアップさせる気がします。逆に、楽器が下手であることよりも歌が下手であることの方が、コンプレックスになりやすいと思います。

したがって、「歌う」という行為は容易に「恥ずかしい」へと繋がります。
とりわけ、思春期にあたる中高生は顕著です。合唱コンクールで「男子歌って~!」となる理由の一つはこれです。ですのでこの点は中高生よりも、むしろ大学生以降の大人の方がやりやすいのかも知れません。

(補足)
中高生の特に男子が歌いにくい理由はこれだけではありません。大きな理由は、「声変わり」でしょう。声変わり前に音感を身に付けたとしても、声変わりの時期は音をとりにくくなります。声変わり前に十分に音感を身に付けられなかった場合は想像に難くありません。

幼少期のまだ羞恥心が少ないうちに、はっきりと声を出す習慣がついていれば、ある程度歌もやりやすくなるでしょう。この点は本人の性格、関わってきた集団の性格、性格を形成する環境など、様々な要因があるため一概に何かのせいとは断言できません。

蛇足ですが、近年はコロナ禍において、歌に限らず大きな声を発する活動が大きく制限されました。最近こそましにはなってきましたが、学生時代の決して短くない時期を、声を潜めて過ごした彼らにとって、歌いたくとも歌えない実情があるのかも知れません。

学習者側③ 半先天的リズム感

「リズム感」とは、リズムを感じる能力全般のことで、音楽においては例えば楽曲の中に一定のビート(拍)やそのまとまり(拍子)を認識する能力、あるいはそれを出力する能力のことです。

特に根源的な能力は、一定のビート(拍)を感じる能力です。一定の間隔で手を叩くことは誰でもできると思うかもしれませんが、そうではありません。

この点について、「半先天的」だと思うのは、一定のビートは音楽に限らず、バイオリズムに根差したものだからです。心臓はほぼ一定の拍をビートを刻みますし、歩いたり走ったりするときもほぼ一定の間隔で足を動かすでしょう(難しい人もいますが…)。音の高さを、調性に当てはめて認知することと比べ、はるかに根源的です。スポーツの世界においてもリズム感は重要ですね。

リズム感は運動感覚と密接に結びつきます。これを音楽の文法に当てはめ、幼少期から体を動かしながらリズムを学ぶのが、リトミックです。幼少期であれば、先天的と思えるような能力を伸ばすことができます。

リズム感を大人になってから理解していくことも、ある程度は可能でしょうが、根源的な運動感覚と結びついているがゆえ、理屈から入ることも難しい、半先天的な領域なのではないかと感じます。

教師側① 研究蓄積の少なさ

そもそも「ソルフェージュ」という言葉は、大多数の人には聞き慣れないでしょう。この言葉が使われるのは、主に音楽関係の大学や、ピアノ教室などです。

ソルフェージュ能力は、音楽を仕事にしようとするならば必ず身についていなければならない基礎的な能力です。ですので、ソルフェージュは専門的な活動分野と捉えられがちです。

従って、音楽大学やピアノ教室などで行う想定のソルフェージュ教育は、そのノウハウが蓄積されていますが、それ以前の一般音楽教育におけるソルフェージュは、研究が進んでいないのではないかと思います。

実際、ソルフェージュ関係の書籍は大多数が音楽大学やその入試で使うものが殆どですし、仮に独学しようとしても取っ掛かりがない、出来ても楽しくない、ということが多いのではないでしょうか。

教師側② ソルフェージュへのモチベーション

そもそも一般の音楽教育でソルフェージュを必要なことだと捉えているか?という問題です。

先ほども述べたとおり、ソルフェージュは音楽大学やピアノ教室などで行う、専門的な活動分野だと捉えられがちです。しかし、ソルフェージュはあらゆる音楽活動の基礎になる分野です。

そのレベルをどう設定するかはともかく、ソルフェージュの視点を一般の音楽教育にも持ち込まなければ、基礎的な能力を育てることができない、学習者の才能に依存した教育になってしまうのではないでしょうか。

ただひたすら楽器や楽曲を練習するだけでは、音楽学習としては効率が悪いと言わざるを得ません。特に吹奏楽部などでは、その曲の聞き覚えや運指の暗記に終始し、楽曲の理解につながっていないことが多いでしょう。楽器は吹けるのに、楽譜は読めない、自分のやった曲以外には興味がない、といったアンバランスなことが起こります。

ただ、かといってソルフェージュ活動を機械的にこなすだけでは、つまらないものになってしまうのも事実でしょう。私はこの意味で、フォルマシオン・ミュジカルというアプローチに注目しています。実際の曲を使い、楽しくソルフェージュや理論を学びます。

教師側③ 学校での音楽教育の系統性

公立学校の教育課程は、文科省が定める「学習指導要領」によって規定されています。

教育全体の目指す目標から、各教科の目指す目標、また細かい内容も示されます。例えば算数であれば、どの学習段階(学年など…)でどういった内容(掛け算、分数など…)を教えるのか、が規定されています。教科書もその内容に沿って作られるのです。

ところが、音楽に関して言うとかなりその内容は曖昧です。目標事項としてよくあるのは、「~を感じられるようになる」といった目標です。

これでは、具体的にどの程度のレベルを目指すべきなのか、そもそも「感じる」は主観的なことであり、どうやってそれを判別するのか、分かりません。教員に委ねられています。ですので、教える教員によって、到達する姿はバラバラなのです。

申し訳程度に、これらの曲から選んで歌いなさい、これを教えなさい、といった必須事項もあります。しかし、どの学習段階で教えるのか、どういった順序で教えるのか、といった系統性は委ねられていると言っていいでしょう。途方に暮れます。

その中で、ソルフェージュや楽典などに関する記述はごく僅かです。つまり、音楽の基礎能力を育てる必要はほとんどなく、育てたとしてその到達すする姿は委ねられています。だから極端な話、教員は何も基礎的なことを教えなくても成り立つのが音楽の授業なのです。

ですので、学校の音楽教育で音楽の基礎力がつかないのは、ある意味必然と言えます。英語で言えばアルファベットを覚えない、数学で言えば四則演算を練習しないような状態です。基礎という土台がないため何を教えようと、賽の河原のごとく、力の積みなおしになります。

余談ですが、かつては学習指導要領上で基礎的な内容(主に楽典)を、細かく教えるよう定められた時期がありました。ある研究によると、その時期に教わった人々の読譜力は有意に高かったそうです。しかしその代わり、音楽が「嫌い」な人の割合も高いそうです。ですので楽しく学ぶ方法が求められますね。

まとめー大人になってからソルフェージュ能力をつけるには

ソルフェージュ能力を大人になってから育てることについて、全2回にわたり長々と考えてみました。

絶対音感のような、音高を瞬時に判別するいわゆる「音感」を大人になってから育てることには困難が伴います。しかし、音楽の基礎力であるソルフェージュ能力は音感だけでなく、多様な能力を含みます。

今回の記事では大人になってから育てる難しさについて考えてみましたが、それは裏を返すと道筋でもあります。

認知特性の変化ー論理的思考の発達

音高の認知特性の変化に伴い、音を相対化せずに絶対的に認知することは難しくなります。しかし、大人になるにつれ、論理的な思考力も発達します。

論理的思考力を利用し、まずは楽典や音楽理論から入るのも1つの道ではないでしょうか。理想は、音に対する感覚と、理論の理解が結びついていくことですが、どちらが先でも良いのではないかと思います。理論の助けを借りて、後から感覚が追いつくというのも一つの形ではないかと思います。

楽器の個人レッスン

ソルフェージュのレッスンに限らず、ソルフェージュの視点に理解のある先生のもとで何かしら楽器を学ぶのも一つの手でしょう。

一般の音楽教育でソルフェージュ能力が身につきにくいのは、そもそもその必要性が意識されていなかったり、教えるアプローチが研究されていなかったりするためでした。

しかし、個人レッスンとなると、教える側は嫌でも学習者との認識の差に向き合うことになります。その差に見切りをつけない、楽器以外のことを丁寧に教えてくれる先生ならば、ソルフェージュ能力を育ててくれるのではないでしょうか。

ちなみに、ここで歌ではなく楽器のレッスンを取り上げたのは、楽器によってある程度音高がガイドされるという利点があるためです。もちろん歌でも良いと思います。

身近な音楽のメタ認知

授業的な「音楽」は苦手でも、カラオケなどは好きな人は多いでしょう。そうでなくとも、動画やTVを通し、BGM等の形で音楽に触れる機会は、昔と比べてかなり多いはずです。

そうした音楽に向き合う際、試しに楽譜という視覚的な情報とつなげてみる、様々な楽器で演奏してみる、分析をしてみるなど、メタ認知を広げてみるのもいいと思います。身の回りの音楽すべてに対し、分析的な視点を持つことができると、すべての音楽が成長の材料になります。

おわりに

以上、長々と考察してみました。お付き合いありがとうございます。

なお、この記事はエビデンスに基づかない個人的な見解を多分に含んでいます。ご了承ください。


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