見出し画像

どうする秀秋3もうひとつの関ヶ原

 松尾山を降り麓の四将を蹴散らした小早川勢は隣の大谷吉継たちと戦っている東軍には目もくれず一気に家康本陣を目指す。
行く手を遮る敵は藤堂高虎、京極高知隊の一部のみ。
驚愕したのは家康である。
桃配山から陣を移したのが裏目に出たのだ。

 家康本陣

「小早川勢他の諸隊に目もくれず我らに真っ直ぐ向かって突撃してきます!」
「おのれこわっぱめ。たばかりおって。」
血が出るほど爪を噛んで家康は苦しそうに呻く。
「如何なされます?」
側に仕える本多正純が訊ねる。
「前線の井伊直政、松平忠吉隊を呼び戻せ。」
「ははっ。」
「それから後方で毛利に備えている山内一豊、有馬豊氏をこちらに呼ぶのじゃ。」
「御意。」
使い番の旗本が慌ただしく出馬する。
後方の二隊は合わせても3000に満たないが時間稼ぎにはなるだろう。
その間に宇喜多勢と戦っている井伊、松平勢が戻ってくればなんとかなるかもしれない。
家康の本体2万といっても多くの小荷駄などを含み実際戦えるのは数千に過ぎない。
徳川の主力3万8000を率いる秀忠は中山道を夜を日に継いで美濃に向かっているはずである。


 迫りくる小早川の軍勢を眺め本多忠勝は覚悟を決めた。
「殿、お別れでござる。」
「ならぬ忠勝。」
本多忠勝の手勢は僅か500に満たない。
「いいや、殿。徳川四天王寺と言われたこの平八郎良き死に場所に巡り合えうれしゅうござる。どうかお逃げくだされ。秀忠様も追っつけ馳せ参じましょう。
南無八幡。さらばでござる。」
そう言うと家康の制止も聞かず馬首を巡らし小早川勢へ向かって突撃してゆくのだった。

 小早川勢の先鋒は松野主馬正重。
元は豊臣家の直臣であり、東軍に与する良しとせず何度も諫言していたため戦意が高い。
出陣にあたって東軍の軍監大久保猪之助、奥平貞治を血祭りにあげてきたばかりだ。
道を遮る京極高知の軍勢は鬼槍と言われた松野主馬の勢いを恐れ北東に敗走してゆく。
東の方角に家康の本軍が陣払いしようとしているところを目の端に捉えたが、その前に土煙を起こし突撃してくる騎馬隊がある。
みるみる迫る先頭の騎馬は黒糸威(くろいとおどし)の胴丸具足に立派な鹿角脇立兜を被った大柄な武者。
見覚えありと大音声をあげる。
「これはこれは本多平八郎忠勝殿とお見受けいたす!」
「いかにも忠勝じゃ!殿をたばかった金吾のこせがれを退治しに参ったわ!」
「天祐なり。良き敵に出会い候。拙者は小早川中納言が家臣松野主馬正重なり。内府殿のみしるし頂戴しに参った!」
「推参なり松野主馬。金吾の前に血祭りに挙げてやるわ。
いざ!」
そうして槍を打ち合うこと三度。
松野主馬も鬼槍と言われた豪の者であったがさすが家康に過ぎたる者と言われた男。
齢五十三の老将なれどいささかも膂力衰えることなく、松野の突く十文字槍を火花を散らして弾き返すとエイヤッと愛槍蜻蛉切りを突き入れる。
槍の先に止まった蜻蛉が真っ二つになるほどの名槍。
松野の胴丸ごと土手っ腹を深々し刺し貫いた。
「…無念なり。」
馬上から崩れ落ちる松野に足軽が止めを刺す。
「本多平八郎忠勝松野主馬を討ち取ったり!」
一挙に徳川勢の気勢が上がり小早川勢の足が停った。
これを後ろから見ていたのは片倉重長。
秀秋に物見だけとは言われたものの小早川への随身が決まった時から命は捨ててある。
ここで西軍に勝たせることが伊達家の御為になるならばと鎧兜を付けぬ軽装の身なれど槍を片手に躍り出た。
「なんじゃお主は。鎧も付けぬこわっぱよ。」
片倉重長齢十五にして初陣であるが、いささかも臆することなく名乗りをあげた。
「それがし伊達政宗が家臣片倉重長なり。仔細あって小早川家に御味方致す!」
「なんと小早川に伊達とは。されば金吾をたぶらかしたのは伊達の仕業か!」
「さにあらず!」
そう言って槍を突くも蜻蛉切りで弾き返す忠勝。
これでは分が悪いと悟った重長は下馬して立ち向かう。
それた見た忠勝は何度も槍を突き合うものの、軽装が幸いしてひらりひらりと身をかわす重長。
まるで義経の如く周りをくるりと回って撹乱すると忠勝の馬に一槍突き刺す。
たちまち棒立ちになった馬から転げ落ちる忠勝。
これ幸いと脇差しを抜いて素早く忠勝の胴の隙間から刺し貫いた。
忠勝も槍を捨て脇差しを抜いて重長の左肩に突き刺すものの構わず重長は急所を探って再び刺した。
これにはさすがの忠勝も観念した様子。
「見事なり。こわっぱ。我首と我槍そちに授ける…手柄といたせ。」
「では御免つかまつる。」
首を掻いてる暇はないと泣きながら忠勝の蜻蛉切りを拾うと再び馬を探して徳川勢への追撃を再開するのだった。

 その頃、北の戦場では小早川の裏切りに気づいた黒田長政が素早く反転退却に移る。
笹尾山の陣中深く攻められていた石田勢だったが前線を指揮する島左近が黒田の鉄砲隊に撃たれ討ち死に。
変わって指揮執った蒲生頼郷も深手を負い、石田勢は混乱して追撃の好機を逃してしまった。
小早川の加勢を知って歓喜した三成だったが前線の黒田勢、細川勢が鉄砲を放ちながら退却するに気づき、慌てて馬に乗って追撃するもすでに五町も遠くに逃げられてしまった。
 その南の戦場、宇喜多秀家勢と合戦中の福島正則は黒田長政が撤退を勧める使者を出したものの頑なに撥ね付け他の将卒が逃げ出す中、陣内に留まり奮戦した。
豪勇で鳴らした福島の家臣、可児才蔵など深手を負いながら敵の首級を三十も挙げる凄まじい槍働きをしたものの宇喜多の先手の大将明石全登隊の鉄砲によって討ち死にてしまった。
そしてとうとう福島正則も一人で幾人もの雑兵を槍で突き伏す奮戦を見せるものの、宮本武蔵という足軽と組打となり討ち取られてしまう。
ここに福島隊はほぼ壊滅したと言ってよい。
そして井伊直政、松平忠吉隊は家康の伝令を聞くと直政が僅か数百の手勢を残して殿(しんがり)を務め、その間忠吉はうまく家康の元へ合流することができた。
しかし前線に残った直政は全身鉄砲を浴びついに落命してしまう。
ここに徳川四天王と呼ばれた本多忠勝、井伊直政の重臣二名が討ち死に。
また東軍の中核を担った福島正則が討ち取られたことにより西軍の勝利はほぼ確定したと言ってよい。
しかし小早川勢が北上して東軍の側腹を突かなかったため黒田、細川、加藤、田中などは十分な兵力を残したまま中山道方面への退却を許してしまった。
 全力で東軍を追撃する西軍諸将であったが西軍の中でも損害の激しい小西行長、はじめから静観している島津義弘などは追撃に参加せず足並みが揃わなかった。

 しかし敗れた家康も百戦錬磨の名将である。
万が一のことを想定し退路は確保してあった。
後方の山内一豊、有馬豊氏のさらに南。毛利の籠る南宮山と対峙して池田輝政4500浅野幸長6500の計1万5000の大軍が温存されてあった。
南宮山に籠る吉川広家が東軍の敗北を知り、毛利秀元15000安国寺恵瓊1800と下山を開始した時は既に遅く、全軍が降りるまで二時間掛かった。
南宮山の麓、中山道沿いの森に長束正家1500その後方に土佐の長宗我部盛親6600の兵が潜んでいたのだが、精強で鳴る池田輝政、浅野幸長の軍勢を恐れて東軍が中山道を敗走するのをみすみす見逃してしまった。
家康はそのまま岐阜城へ向かう。

【続く】


この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?