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どうする秀秋4政宗の野望

 下野小山にて上方勢の大軍が江戸へ引き返すのを確認すると会津の上杉景勝は家臣直江兼続に25000の大軍を与え、後顧の憂いを断つべく出羽最上領に怒涛の如く侵攻を開始した。
以下はネットの記事から引用した慶長出羽合戦の概略である。

慶長5年(1600年)9月9日、 直江兼続率いる本隊 25000人は、 萩野中山口 (狐越街道)、小滝口、大瀬口 (白鷹町大瀬) 栃窪口 (白鷹町栃窪)、掛入石仲中山口に分かれ最上領に侵攻を開始。

9月13日、 畑谷城落城。 城主江口五兵衛父子以下500余撫で斬りにあう。

畑谷城を落としたのちに直江兼続は菅沢山に陣を敷く。

9月15日、兼続は山形城の南西8キロに位置する長谷堂城に対し 大軍を背景に力攻めを敢行。

最上義光重臣の志村光安を中心に1000人の寡兵ながらも防戦。

同日、最上義光は嫡男最上義康を北目城(仙台市太白区)にいた伊達政宗に派遣し援軍を依頼する。
伊達氏の重臣片倉景綱は両家を争わせて疲弊させるべきであるとして諌めたのに対し、政宗は「一つは家康のため、一つは山形城にいる母保春院のために最上を見捨てるわけにはいかない」と述べ、16日付書状にて政宗は叔父留守政景を救援に派遣することを決める。

9月16日、200名の決死隊と共に上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。
これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの混乱に陥った。

9月18日、直江の雑兵が長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送る。

9月21日、 伊達政宗が援軍の援軍留守政景隊3000の軍勢が、 白石から笹谷峠を越えて山形城の東方 (小白川)に着陣。
9月24日には直江兼続本陣から約2km北東の須川河岸の沼木に布陣する。

9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣した。ここにおいて一時戦況は膠着する。

9月29日、 上杉勢は総攻撃を敢行するも長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げた。


 慶長五年10月1日
 奥州北目城
 北目城の大広間に伊達政宗は重臣3名を集め緊急の軍議を開いた。
側に控えるのは片倉小十郎景綱、政宗と喧嘩して暫く出奔していたが此度の白石城攻めに戻ってきた伊達茂実(しげざね)、筆頭家老石川昭光の3名だ。
昨晩亥の刻(午後10時)早馬の知らせで東軍敗北の知らせがもたらされた。
伊達家は今東軍についている。
上杉の白石城を攻略した後上方勢が南下したため一旦上杉と和睦を結んでいたが東軍快進撃の報に接すると再び上杉領に侵攻。9月25日には湯原(宮城県刈田郡)を攻略している。
当初政宗自身も29日に出陣する予定だったがもう少し様子を見るため27日に延期することに決めた。
「此度の美濃関ヶ原の合戦は思いの外、内府殿の東軍が敗北したようじゃ。」
「よもや東軍が負けるとは思いもよらぬこと。これは戦略の練り直しが必要かと。」
政宗は東軍につくと決めたものの同じ東軍である南部利直の領内で和賀、岩崎一揆を扇動したりなどしていた。
「なんでも小早川秀秋が西軍についたと。まさか片倉殿のご子息が小早川を説得したのではありますまいか。」と石川昭光が言う。
片倉小十郎景綱の長子重長を使者として小早川に送ると決めたのは政宗である。
間に合うかどうかもわからないが一種の賭けであった。
「うむ。重長を小早川へ遣わしたのが効いたのかもしれぬのう。」
政宗の望みは上方で戦が長引くこと。
家康からは8月22日に書状が届きそこには、政宗が秀吉から与えられていた所領58万石に加えて、約50万石 (刈田・伊達・ 信夫 二本 松・塩松田村・ 長井の7郡) を与えるという武功への褒賞が記されていた。
百万石のお墨付きである。
しかし家康が破れたとあってはただの紙切れに過ぎない。
東軍が勝てば上杉の領土をいくらか加増されるかもしれないがそれだけである。
家康の天下となれば政宗の関東進出の野望は水泡に帰する。
反対に西軍が勝てばもう暫く戦国の世が続き槍働き次第で更なる領土の拡大が望める。
政宗は東軍西軍どちらが勝ってもいいように戦略を立てていた。
「殿、これは好機でござる。年来の遺恨はあれどこの際上杉の膝下に屈して同盟を申し出るべきかと存じます。恐らく上杉は最上を滅ぼした後、関東へ攻め上るつもりでしょう。」
長年政宗に使えてきた知将片倉小十郎景綱が言う。
この男は秀吉の小田原征伐の際、反対する重臣を押し退けて参陣をすすめ、伊達家滅亡の危機を救った知恵者である。
「このわしが上杉に下れというのか?」
上杉は伊達にとって宿敵である。
会津で奥州最大の120万石の勢力を誇り伊達の南下を防いでいる。
元々会津は政宗が芦名から切り取った土地。
その後蒲生氏郷、そして上杉景勝と有力大名が進出し政宗の関東進出の夢を阻んできた。
「左様。両雄並び立たず。ここで上杉と争うは内府殿の思う壺かと存じます。」
「最上へ援軍に出した留守政景はどうする?」
「はっ。出羽で戦が始まってからすでに20日あまり。最上勢思いの外善戦しておりますがこの際、留守政景に上杉に加勢するよう早馬を出すべきかと。さすれば援軍と期待した我らに裏切られ最上は意気消沈。一気に山形城は落ちましょう。」
援軍として出羽沼木に陣を布いた留守政景は政宗の意を受けすぐには最上に加勢せず、両者が疲弊するのを待ち構えていた。
「ふむ。それは最もな意見だ。だが母保春院様の再三の頼みを踏みにじるのは気が引けるのう。」
「この際親子の情愛などお捨てなさいませ。」
「ふっ、簡単に申すな。」
かく言う景綱も長子が生まれたとき主君より先に子を得るのは不忠として危うく命を奪おうとしたのを、政宗に押し留められた過去をもつ。
「しかし致し方あるまい。」
「上杉への使者はおことが務めよ。わしはあの直江兼続が大嫌いなのじゃ。」
政宗と兼続は犬猿の仲である。
「承知致しました。」
「しかし上杉につくとなれば、我ら先陣として真っ先に関東勢と戦うことになるのでは。」と茂実。
「うむ。そのことよ。我らが上杉の手足となって兵を損じるのは真っ平御免蒙りたいものだが。」
これでは上杉の家臣と同じである。
出来れば上杉と関東勢が相争い共に疲弊したところを伊達が漁夫の利を得るのが最上だろう。
だかそううまくはいかないだろう。
「殿。上杉など天下を獲った後で如何様にもなりましょうぞ。」
「はははははっ。この政宗に天下を獲れと申すか小十郎!」 
「左様。ここは博打を打ちなされ。秀吉公の御世より伊達家は何度も滅亡の淵に立たされました。今さらなんで命を惜しみましょう。」
「うむ。思えばよくも今日(こんにち)まで伊達は生き残ったものよ。不肖この政宗、父上から家督を継いで領土は何倍にもなったが何度も御家滅亡の危難に遭うてしもうたわ。」
遠くを見るような目で政宗は語る。

 政宗は少なくとも3度滅亡の瀬戸際まで追い詰められた。
特に危やうかったのは小田原参陣に遅れたこと。
あの時は家臣の間で参陣か抗戦かで意見が分かれた上お家騒動も重なった。
そのときは母保春院が溺愛する次男小次郎を担ぐ家臣団に、叔父の最上義光が策謀を巡らせ政宗を廃し小次郎を当主に据えるという噂が流れていた。
それを聞きつけた政宗は一世一代の大芝居を打つ。
天正18年(1590年)4月5日会津黒川城にいた政宗は保春院の小田原参陣の陣立て祝いに招かれた。
そこで膳に箸をつけたところで毒を盛られたかのように苦しむふりをし、這いつくばって縁側に出て隠しておいた紅の岩絵の具を口に含みあたかも吐血したように芝居をしたのだ。
そのときの呆気にとられた保春院の顔を思うと今でも笑いがこみ上げてくる。
そして背後に策動している最上義光に一杯食わせた痛快さ。
その後小十郎が持ってきた解毒剤を飲むふりをした政宗はそのまま小次郎の部屋に行き一刀の元斬り捨てた…ふりをした。
そして死罪になった罪人の死骸の中から小次郎によく似た者を運ばせこれを小次郎と偽って墓に埋めた。
小次郎はその事件の夜、傅役の小原縫殿助とともに密かに出奔したのだ。
後に小次郎は僧侶となり江戸の大悲願寺の第15代目住職、秀雄となって政宗と再会することになる。
保春院には後に丁重に謝罪し最上家に帰ってもらった。
敵を欺くには味方から。
家臣の鬼庭綱元に手紙で「保春院に毒を盛られて殺されそうになった。背後には保春院の兄、最上義光が絡んでいるという噂がありその通りだとおもう。このままでは小次郎を担ぐ家臣と内乱になるかもしれないし、母上を殺すわけにもいかないので可哀想だが弟の小次郎は殺すことにした。
このことは信頼するお前にだけに話すのでよく斟酌してよいと思ったことは噂として広めて欲しい…」そう頼んだったのだ。
この一件を知るは小十郎、弟の小次郎含めごくわずかである。
その後小田原に参陣した政宗は水引で髷を結い白装束姿で秀吉の前に現れ、もう少し遅かったらここが落ちる所だったと杖で首を叩かれたのだった。

「殿。わしも小十郎殿と同じ気持ちでござる。」
伊達茂実は伊達家随一の猛将。
秀吉の小田原参陣命令が来たとき強硬に反対した主戦論者のひとりだった。
「わしはあの時命を捨てたのだ。今のわしはいわばおまけで生きているようなもの。今度こそ殿の博打に参加したい。たとえ敗れて一族郎党ことごとく討ち死にしたとて何の悔いがありましょうや。」
「よくぞ言うた茂実。しかしいい時分に帰ってきたものよ。伊達の先鋒を務めるのはお主しかおらんわ。」
「勿体無いお言葉。殿、わしはこれから始まる戦が楽しみでなりませぬわ。」
顎髭を扱きながらにっこり微笑む。
「そうじゃ茂実。お主伊達家を出てから諸国を廻って歩いたそうじゃな。」
「はい。一時は徳川内府殿の元へ仕えようかと思いましたが出された返事は百人口。早く伊達へ帰れと叱られたようなものにございます。もしこなたをこれ以上高く買うものがおればそれは上杉景勝であろうかと。」
「では上杉から五万石の誘いという噂は?」
「それはまことのことでござる。されどそれは殿に弓引く裏切りの代償。殿を倒して何の五万石でござろう。仮に我らが上杉に五万石で召し抱えられたとして殿に勝つなど滅相もないこと。」
「…これだっ!」
思わず政宗は策を閃き膝を打つ。
小十郎もすぐに勘づいたようだ。
「はて?如何なされた殿。」
「茂実お主わしを裏切れ。」
「なんと!」
「小十郎お主は分かったな?申してみよ。」
「ははっ。茂実殿に伊達を裏切ってもらい、上杉陣営に通じてもらうのです。こちらの情報を流して信用させ決定的な時に裏切るのです。いずれ伊達と上杉が戦になったら内応するとでも申せば乗りましょう。」
「わしは武骨者ゆえかようなはかりごとは苦手でござる。」
「武骨者ゆえ返って信用されるのじゃ。」
「ふむ。ならばそう致しましょう。」
「面白うなってきたわ。…この政宗あと20年早く生まれていたら天下を望んだものよと日頃嘆いていたが、まさかかような戦機に恵まれるとはな。」
この時、政宗34歳。天下への野望に燃えるその隻眼が怪しく光った。

 その後政宗の使者が早馬で留守政景に作戦を伝え、更に攻め手の大将直江兼続に伊達の加勢を伝えると両者は示し合わせ翌10月2日総攻撃に移る。
片倉景綱の読み通り味方と思った伊達に裏切られた最上勢は意気消沈。多数の逃亡者を出し最期まで踏み留まって戦った最上義光も上杉の客将前田慶次と組打ちとなり討ち取られてしまう。
山形城は落城しここに名門最上家は滅亡した。

 山形城を攻略し僅かな守兵を残して会津若松城に引き返した直江兼続はすぐに主君上杉景勝の元へ行き内密に軍議を開く。
「なに?伊達が下っただと。」
「はい。おそらく伊達にも東軍敗北の知らせが届いたのでしょう。ここで伊達と争ったとて内府の思う壺。このまま伊達と同盟を組み関東へ攻め上るのが最善かと。」
「しかし伊達は油断ならぬぞ。背後から襲わぬとも限らん。」
「たしかあの政宗という御仁は油断のならぬ方。表裏比興の者にていつ掌を返されるかわかりません。しかし伊達とて今我らと争う愚は承知のはず。いずれ雌雄を決するとして一時(いっとき)同盟を組めばよいのです。まずは政宗の長子を人質に貰いましょう。」
「うむ。それならばよかろう。」
「そして関東へ攻め上る折りは伊達に先陣を任せればよいのです。さすれば背を討たれることもありますまい。」
「うむ。では宇都宮城に籠る結城秀康攻めは伊達に先鋒を任せるとするか。」
「御意。常陸の佐竹義宣も我らに加勢する手筈となっております。」


 その頃遥か九州、豊前中津で黒田如水が挙兵。
蓄えた私財を投げうち9000の軍勢をかき集めると西軍の領地に侵攻を開始。
毛利の支援で西軍として挙兵した大友義統の軍勢3000と豊後石垣原で激戦の末勝利を収める。
その後瞬く間に西軍の諸城を攻略しながら南下。
下った軍勢をそのまま自軍に組み込み4万にまで膨れ上がった。
また東軍についた肥後半国の加藤清正は主不在の西軍小西行長の居城宇土城を攻略。残り半分の肥後南部を攻略し肥後全域を支配する。
東軍についた肥前佐賀の鍋島直茂も黒田如水へ協力を申し出、ここに九州は薩摩の島津を除きほぼ全域が東軍の勢力下となった。
如水はその後情勢収集に務めつつ薩摩の島津を攻めるか和睦した後、九州勢を糾合して毛利の中国地方に攻め入る計画を立てていた。


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