018.勤務成績は欠勤率21パーセント

幕末から明治初期の日本人の働きぶりは、怠惰で仕事をしなかったというだけでなく、勤務の形態そのものに慣れていなかったという面もあったようです。

慶応元年(1865年)に建設がはじめられた横須賀製鉄所は、小栗上野介の発案で、フランス人技術者レオンス・ヴェルニーの指導を得てつくられた官営の造船所で、フランスにならって、1日8時間労働、午前(10時前後)・午後(3時前後)に休憩があり、日曜日休業の週休制、病欠の場合100日は有給、天引き預金・・・などが取り入れられた画期的な工場であり、後に造船大国、ものづくり大国日本をつくる出発点になった工場です。

そこで、操業後数年たった明治5年、5項目からなる「造船所職工規則」が公布されています。「就業規則」はそれまで作られていなかったのですが、稼働してみて必要だということになって、急遽作られたものでした。

内容をみると、第2項に、

「職工及人夫毎朝入場後直チニ工場ヲ脱出シ、午餐停業ノ頃混雑二紛レテ帰場スル者」(⑧「横須賀海軍船廠史」原書房 明治百年史叢書)

を問題とし、これに対する措置を定めています。

つまり、朝、出社して工場にいったん入ったあと、工場を抜けだして、昼食休憩時に戻る職人職工が、少なからず存在していたのです。

「厳密ノ尋問ヲ経テ、午後三時間改札場ノ木杭二縛置シ、其側二犯罪者ノ姓名及附属工場ノ名ヲ記シテ之ラ懲罰スベキノミナラズ、脱出中ノ時間ニ応ジテ、一日若クハ数日間ノ給料ヲ減ズベシ」(同書⑧)

と懲罰を課したことで、違反者は減少したようですが、それでもこれが日本人職工の当時の勤務の実態でした。

江戸時代に培われた気ままな勤労ペースが、時間で管理された勤務実態に馴染めなかったということもありますが、男子は腕一本で生きるべし、雇われ仕事は女子供のやることという風潮がある中で、時間で雇われるというのは男子たる者の仕事ではないとして、勤務という形態が軽視されていたということもあるのでしょう。

それにしても、怠業、エスケープという軽微な犯罪で木杭に縛るとは、すごい体罰ですね。生産の場は週休制や勤務時間など、フランス式の指導で近代化したようですが、世の中の慣習的な刑法/民法の世界は、まだ旧時代のまま幕末の名残が色濃く残っていたようです。

1859年、61年と来日し、64年にスイス領事として3度目の来日を果たしたリンダウは、著書『スイス領事の見た幕末日本』(⑨新人物往来社)の中で、

「仕事に対する愛情は日本人にあっては、だれにでも見られる美徳ではない。かれらのうちの多くは、いまだ東洋に住んだことのないヨーロッパ人には考えもつかないほど不精者で」、「矯正不可能な怠惰」

と書いています。

多くの外国人が書いているように、過去の私たちが怠惰であったとすれば、いまの私たちの勤勉さは、いつ身につけたものなのでしょうか? 勤勉こそ古くから日本人に備わったDNAという、私たちの勤勉さに対する誇りは、もしかすると、私たちの勝手な思い込み、世界に広げた風評伝聞かもしれません。

実際はどんなだったのでしょうか。

たとえば明治時代の日本人労働者はこんな具合でした。

明治政府の農商務省の調査報告((⑩「職工事情」、生活古典叢書第4巻、光生館))によると、海軍の明治35年3月31日の呉工廠の職工の勤続年数を見ると、職工総数4,546人のうち、

・半年未満が1,145人/(累計1,145)

・半年-1年が781人/(累計1,926)

・1年-2年が782人(累計2,708)

・2年-3年が320人/(累計3,028)

・3年-5年が571人(累計3,599)

・5年以上勤務する者が947人(累計4,546)

と、勤続年数1年に満たない職工が全体の42.4パーセントを占めており、長崎の三菱造船所では職工5,066名のうち2,514名と、実に、49.6パーセントが、経験1年未満の職工だった(表1-1参照)。

 

表1-1職工の勤続年数


 

表1-1からもわかるように、明治30~40年ころの職工の半数以上は勤続3年未満の未熟練者で、年にほぼ半数が退職した。

基幹産業である三菱長崎造船所の月当り離職率は6%(1898年)、欠勤率も21%(1908年)に達した。欠勤率は冬の11月-1月は低いが、暑い7・8月に高まる。月のうちでも、5日は賃金支払日で出勤するが、6-9日は懐が暖かになったため怠惰になり遊興のため欠勤、9日以後は賃金を殆ど使い果たしたので真面目に働き、20日の賃金計算のための帳締め日には最良という「気まぐれな出勤態度」(⑪「勤勉は国民性か?」加藤哲郎の研究室http://netizen.html.xdomain.jp/Leisure.html

という状況でした。

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