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021.どこへゆく「ものづくりの国」日本

章の冒頭、セミナーでのアイスブレークとして「この国はどこの国?」の問題を紹介しましたが、セミナーではこの話の結論は、こんな風に結びます。

ひとつは、国が持つ技術力は、時代とともに変わっていくということです。高い技術力と旺盛な改善・改良意欲を誇ったかつてのアメリカと同様に、やがて何年か先、日本からもものづくりの技術力が失われていくかもしれないということを考えてほしいということです。

ものづくりでこれだけ急成長を遂げたアメリカは、1950年ころを境に、安価な労働力を求めて国内でのものづくりを放棄して、次つぎと海外に工場を展開し、隆盛を誇っていたものづくりの場は、すこしずつアメリカ国内から消えていきました。

ものを作る喜びに増して、それによって利益をあげること、裕福になることを求めた結果です。そして現在では、受講者からまったくその名が出されなくなってしまったように、ものをつくるという面で、アメリカという国名が聞かれることが、ほとんどなくなってしまいました。

その一因としては、仕事の主人公として労働者が取り組んでいた労働が、効率を求めるあまり、労働者から仕事の主体性を奪い、仕事をさせる側とする側に役割を分断することで、ものづくりの場での労働者・技能者を仕事の主人公ではなくしてしまったという要素もあるかもしれません。

アメリカ文化を象徴しているアップルも、製造業と言いながら、自社では企画・設計だけを行い、ものづくりは台湾のEMSと呼ばれる製造専門会社に依存しています。

かつてアメリカは、

・1908年(明治41年)T型フォード自動車の量産を開始し

・1931年(昭和6年)102階の超高層エンパイアステートビルを完成し

・1937年(昭和12年)全長2,830メートル、 塔間1,280メートルというゴールデンゲートブリッジを完成する

という輝かしい技術力を誇った国でした。

その集大成としての圧倒的な生産力が豊富な物量を生みだし、第二次大戦を勝利に導いたといえます。

しかし、ものづくりが国内から海外に移ってしまった結果、アメリカでは航空機など最先端の製品さえ、メインパーツを外国に頼らないと製造できないという状況に陥っています。その結果、国内では雇用も確保できず、失業率は高止まりの状態で、政府は雇用を確保するために、海外に進出した工場を国内に回帰させようとしています。

いま日本の製造業で働くみなさんは「日本は製造業が支えるものづくりの国」と自負を持っているようです。

しかし、グローバル化の名のもとに、多くの工場が海外に移転し、日本国内からものづくりが消えようとしています。日本の産業界も、何年か先に、アメリカのように、海外に工場を展開してものづくりを放棄し、国内には工場さえなくなってしまうということにはならないでしょうか。

もしそうなったとき、私たちは何を頼りに雇用を維持しているのでしょうか。長期を見据えた戦略を考え、いま、わたしたちは何をするべきか、この課題をしっかりと考える必要があるように思います。

アイスブレークのまとめの2つ目は、勤勉さもまた時代とともに変化していくということです。

かつて怠惰で自由気ままな仕事ぶりで先進諸国から来日した人たちをあきれさせていた日本人が、近代産業の導入とともに徐々に働き方を変え、やがて時間に合わせて働く先進国だった欧米の人たちからもあきれられるほどの類を見ない勤勉さを発揮するようになりました。

そして、現在は、経済の成熟化とともに生まれた新しい世代が、勤勉とは一線を画す価値観で、独自の新しい働き方をはじめているように思えます。

そうした日本の状況と対照的に、金銭的な豊かさを求めてアジアの各地で、産業の近代化が進められ、日本で進められてきた勤勉とはイコールではないにしても、新しい仕事熱心な働き手が誕生しています。

50年、100年というスパンで見たときに、日本人が豊かさの代償として徐々に勤勉さを失っていく中で、そうしたアジア圏の国々の中から新しい勤勉な国民が誕生するのではないかと思います。

いま、私たちがアジアの人たちの怠惰さを嘆いて口にする言葉は、まさに、明治初期に欧米人が日本人を前に嘆いたことばのように、何年か先に、彼らによって、「かつてそんなに言われていた時代があった」と振り返られるときがくるようになるかもしれません。

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