見出し画像

004.日本人の底に流れるものづくりの通奏低音

19世紀中頃から第2次大戦後しばらくの間まで、圧倒的な力で豊富な物量を生み出し続けていたアメリカでは、ものづくりの多くは国外に移動し、GDPでみれば製造業は国内生産のわずか10パーセント強を占めるにすぎなくなっています。アメリカ国内の産業としては、製造業は主役の座から去り、老兵は消えゆく運命にあるかのようです。

アメリカ経済のけん引役であるGAFAはハードウエアの生産を自社で行っていませんし、アメリカものづくりの代名詞だった自動車産業さえ、国の支援なしでは一人歩きがおぼつかなくなって、主役の座は新興のテスラにとってかわられています。

こうした製造業の後退について、ラストベルトの人たちが工場を再開せよ、仕事を返せと主張していますが、多くのアメリカ人はあまりこだわりを持っていないようです。

アメリカ人が興味を失った「ものをつくる」ということに、わたしたちはなぜこれほどこだわりを持っているのでしょうか。こんな国民は、歴史上、世界にも例はないのではないかと思います。

近年、日本でもサービス産業化が進み、製造業のGDPに占める比率はわずか20パーセントほどにすぎなくなっています。半導体も海外に負け、もう製造業の時代ではない、という声が聞こえます。

それでも多くの人は、やはり製造業が元気でなければ日本はダメといいます。なぜ、私たちはこれほどまでに、ものをつくる製造業にこだわるのでしょうか? 雇用の場を提供するという以外に、日本人のものづくりへのこだわりをみていると、ものをつくるという行為そのものに、日本人をひきつけてやまない何かがあるように思えてなりません。

江戸時代中期(1754年)に発行されて人気になり、何度か版を重ねて、類似の続刊まで発行された書籍に「日本山海名物図会」というのがあります(第5章参照)。

絵入りで諸国の山海名物を紹介するいわばカタログ本のはしりのような書籍です。しかしそこに紹介されているのは、諸国の山海名物といいながら、各地の名物・名産品そのものではなく、その名物を採集・加工する現場の様子であり、いまふうに言えばメイキング本なのです。

山陰地方では、たたら製鉄が知られていますが、イラスト入りで紹介されているのは、作られた鉄製品ではなく、原料である砂鉄を集める様子やそれを溶かす炉と、ふんどしひとつの裸姿で炉の横にあるふいご(たたら)を踏んで風を送っている作業者たちの現場の姿なのです。
 一般に、知らない土地に特有な名産品があるときけば、それはどのようなものなのか、どんな形・姿をしていて、どんな味がするのか? その調理法は?・・・と関心をもつのは分かります。でもこの本が紹介するのはそうではないのです。名産品そのものへの関心以上に、名産品を加工するプロセスに焦点があてられて紹介されているのです。読むのは、いったいどのような人たちだったのでしょうか。

しかも、この本は、1754年に発行された後、43年後の1797年にも版が重ねられているだけでなく、類似の書名の続刊まで発行されているのです。

わたしたちは、ものをつくるという行為に、なぜ、こんなに関心をもつのでしょうか。業(ごう)と言ってもいいようなこうしたこだわりは、世界でも突出しています。

わたしたちがそうしたこだわりを持っていることを、私たち自身は普段はまったく意識していません。

しかし、もしかすると、ものをつくるプロセスへの強いこだわりは、あたかも遺伝子に組み込まれたDNAのように、通奏低音となって、私たちのなかを流れているのではないか。それが結果として、私たちにものづくりへのこだわりをもたせ、高品質なものを生み出させているのではないか、そう考える以外に、説明がつかないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?