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007.日本のものづくりはどこを目指すのか

 「日本のものづくりはダメ」そんなことが大きな活字で報道されたりしています。
アメリカの経済をけん引するGAFAに対して、日本産業界のIT技術の遅れも指摘されています。コロナ禍で業務処理のリモート化が言われていますが、工場という現場でなければ不可能な製造業のものづくり現場の動向はあまり話題にのぼってきません。
過去にジャパン・アズ・ナンバーワンと言われ、自他ともに世界一と言われた製造業も、自動車産業に頼って、一本足打法などと揶揄されていて、浮上する兆しも見えません。ITの発達によって技術ノウハウがソフト化されたことで、日本が強みとしてきた、摺り合わせ技術の優位性がIT技術と設備の高度化によって、ボリュームゾーンの製品で失われてしまった結果です。
こうしたことから、日本におけるものづくり技術はガラパゴス化していると言われたりしています。本当に日本のものづくりはダメなのでしょうか。私はそうは思いません。
 ものづくりの問題よりもむしろ、高度なものづくりや創造力がありながら、それを活かせないマネジメント能力に問題があるのではないかと思います。
アメリカの産業は、ものづくりから離れた代わりに、軍需産業を含めた航空宇宙分野や医学生理学・遺伝子領域、先端の技術開発、ICT、金融工学……に特化し、リーダーシップを保とうとしています。残念ながら、日本が同じ土俵で勝負できるとは思えません。実体のない、予測や将来の変動リスクを取引のタネにするという発想は、日本人からはなかなか生まれないのではないかと思います。
となると、日本独自に、将来の方向を見つけ出す必要があります。世界市場でそれなりの位置を確保し、将来に向けて、先端を走り続けるためには、日本の産業はどこをめざすべきなのでしょうか。
同じようにものづくりでの立国を目指しているドイツでは、第四次産業革命としてインダストリー4.0(Industrie4.0)を政府主導で進めています。自在なものづくりを構築することでドイツの強さを築き上げようとするもので、その基本は、サイバー・フィジカル・プロダクション・システム、つまり、ITとものづくりを統合して、国ぐるみで自在な生産を可能にしようという壮大な試みです。コロナ禍で遅れ気味ではありますが、目標は2025年、政官学・産業界をあげてノウハウを蓄積しようと、そのための規格・標準づくりが始められています。
日本は明治以来、西欧科学技術を取り入れてものづくりを発展させてきました。
その始まりは、黒船がやってきた、わずか170年ほど前のことにすぎませんが、前提となる「もの」を「つくる」という行為・意識に関して言えば、日本人の歴史、伝統、文化を前提に独自の発展を遂げたものだということができます。
日本の文化は、西欧の人々にとって、異なる価値観を持っています。
日本が西欧との交流の窓口を開いて170年、お互いを理解するまでの多くの苦難の歴史と、交流の積み重ねを経てきました。以来、170年を経て、やっと西欧の人々に私たちが持つ文化や価値観が、遅れた異端なものとしてではなく理解され、新しい刺激として対等な視点で受け入れられ始めています。
この日本発の文化は、新たな価値観となって、西欧の人々に、新たな刺激を提案するようになっています。そして独自の価値観から生まれた商品が世界で受け入れられ始めています。一杯のどんぶりに独自の世界観を盛り込んだラーメン、ヘルシーで繊細な加工と味付けを施した和食、手軽に清潔を演出する洗浄トイレ、バラエティに溢れたスナック菓子、そしてアニメ文化などなど。

今後、二つの文化の違いを前提に、日本からさまざまな商品を提案する可能性が大きく広がっています。日本発のものづくりが本領を発揮するのは、むしろ、これからなのです。

最終的な製品が高度になればなるほど、同時に、それを支えるものづくりにも高度な技術が求められるようになります。

例えば、自動運転。Aの指示を出せば、確実に毎回高い精度でA作業を行う、装置への信頼がなければ成り立たない技術でもあることはいうまでもないでしょう。どこまでの精度の高さで繰り返すことが求められるのか。それを前提にしか成り立たないシステムであることを考えれば、求められる高い精度の緻密な技術を保証する国は、現状では日本をおいて他に考えられません。

「未来は過去の中にある」――といわれます。

未来に向けて日本のものづくりはどうあるべきか、そして私たちは何をするべきか、それを考えるよすがとして、私たちのものづくりの歴史と伝統、そして強さの源泉を、もう一度確認してみようではありませんか。

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