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073.きえもんが要求した難破船救出の報酬

あるとき、オランダ人がアメリカの船を雇って、出島から銅および樟脳を積んで出帆しました。そして、そのうちの一艘が港内の岩礁に衝突して、沈没してしまいました。
乗組員たちはなんとかボートで海岸にたどり着きましたが、積み荷は船中です。オランダ商館やアメリカ人乗組員、長崎当局が集まって、沈んだ艦船の引き揚げ方法について協議を重ね、引き揚げる努力がなされましたが、うまくいきませんでした。
途方に暮れていると、きえもんと名乗る一人の漁夫がやってきて、作業費を支払ってくれるならば、同船を引き揚げようと持ち掛けました。周囲は彼の提案を「大ボラ」と嘲笑しましたが、他に方法も考えられなかったので、きえもんに任せることにしたそうです。
きえもんは、干潮の時を見計らって座礁した船の両側へ、小型の帆船十五、六隻を並べ、ロープで繋がせました。そして、潮の満ちてくるのを待ち、満潮の瞬間に、全部の小舟に帆を張ることを命じたそうです。沈没船は小舟の浮力で浮き上がり、海岸に着岸しました。そして、海岸で積荷が回収され、沈没船は修繕されたそうです。
この成功で、きえもんは手厚い報酬を貰ったと紹介されていますが、その報酬は、
・帯刀を許されることと、
・オランダの帽子と
・2つのオランダの煙管を手に入れること
だったそうです(⑧『ペルリ提督日本遠征記』(一)岩波文庫)。
ペリーは、もし事情が逆で、オランダ人、あるいはアメリカ人が日本人のために船を引き揚げたのであれば、2本の刀とオランダ帽、2つの煙草では、このような価値ある働きに対する報償としては、はなはだ不十分であることが、早速日本人に告げられたであろうと書いています。
きえもんにとって「帯刀を許されること」の価値がどのくらい大きかったのか、外国人には想像もできないでしょうが、それにしても、オランダの帽子とキセルとは、いかに欲のないことでしょうか。
また、1878年に来日し、6月から9月まで、通訳兼従者を伴って東北から北海道へ旅行をした英国人のイザベラ・バードも、旅の間に各地で「無報酬」で受けた日本人の親切さに感嘆しています。
通訳兼従者の伊藤を連れて東北を旅するイザベラ・バードが、上ノ山の白子沢の駅逓所の継立所では、縁側に腰を下ろしていたとき、
 
「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく扇子をもってきて、丸一時間も私をあおいでくれた。料金をたずねると、少しもいらない、と言いどうしても受け取らなかった。・・・(略)・・・それだけではない、彼らはお菓子を一包み包んでよこし、その男は彼の名を扇子に書いて、どうぞ受けとってくれと言ってきかなかった。私はイギリスのピンを少し彼らに与えるほか何もしてやれないのを悲しんだ。・・・(略)・・・私は日本を思い出すかぎり彼らのことを忘れることはないだろうと心から彼らに告げてここを出発したが、彼らの新設にはひどく心を打たれるものがあった」。(⑨「日本奥地紀行」東洋文庫240、平凡社)
 
などを紹介しています。
そうした体験をふまえて、バードは、
 
「ヨーロッパの多くの国々やわがイギリスでも外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくても、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすり取られるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群衆に取り囲まれても失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気を使い、革帯や結んでいない品物が旅の終わりまで無事であるように細心の注意を払う。旅がおわると心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事を放り出して酒を雑談をしたりすることもなく、彼らはただちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって家へ帰るのである」(前掲⑨「日本奥地紀行」東洋文庫240、平凡社)
 
と日本人の無償の行為、親切心などに感嘆しています。
バードが日本を最初に旅したのは1878(明治11)年、江戸から明治に変わって10年ほどの頃です。後進国にこんな安全に旅ができる国があったということが、バードには驚異だったようです。

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