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061 時計の誕生でヨーロッパは不定時法から定時法に変更

日本での不定時法の時刻制度の仕組みを紹介してきましたが、不定時法がヨーロッパにはなかったのかと言われればそうではありません。ヨーロッパでも、中世まで、不定時法が使われていました。生活のリズムとしては、日の出とともに活動を開始し、日没とともに活動を停止する方が、自然だからです。
しかし、14世紀のなか頃に機械式の時計が作られ、町の中心にある市庁舎などに大時計が設置されるようになると、自然の成り行きとして、ほとんどの国で機械時計の進み方に合わせて生活時間が定時法に変えられるようになっていきました。
定時法への移行を早めたのが、1760年ころから始まった産業革命でした。工場労働で、一斉開始・修了の団体行動の必要性、給料算出と生産性向上などの面から、より厳密な時間管理が求められ、年間を通して変わらない1時間が不可欠になったからです。
こうしてヨーロッパ諸国では、機械時計が登場したことで、生活時間は不定時法から定時法へと変わって行きました。前回ご紹介した旧パリ天文台の不定時法文字盤の天文時計は、農村の自然のサイクルに合わせた不定時の時間と、産業・雇用・労働が日常になり始めた都市部の生活時間のせめぎあいの中で生まれたものと言えるのではないかと思います。
いつ頃からヨーロッパで時間を共有した社会生活が一般化したのかに関して教えてくれるのがシンデレラの物語です。グリム童話などの元になったといわれるフランスのシャルル・ペローのサンドリヨン(④「完訳ペロー童話集」新倉朗子訳、岩波文庫)では、魔法使いのおばあさんから送り出されてお城の舞踏会に出かけたシンデレラは真夜中の12時になると魔法が解けるので、それまでに帰ってくるようにと指示されます。
そして、1日目は言われた通り11時45分の時を打つ音をきいて帰ってきますが、2日目は、うっかり遅れ、帰る間際に魔法が解けてガラスの靴を脱ぎ残してしまいます。
問題は、その時代に、厳密に、11時45分、12時ということを確認することができたのか、ということです。現代に読めば、時計はあちこちにあり、時間は誰でも明確にわかるので、何の疑問もなくスーッと読んでしましますが、この原作「ペロー童話集」がフランスで出版されたのは1697年、日本でいえば元禄10年です。物語に書かれた内容は、そのしばらく前のことと思われますが、このころには、英・仏・独あたりでは、1日24時間の定時法が採用され、街の市役所の時計台や教会が鐘を鳴らして時間を知らせることが一般化していたようです。それにしても、11時45分に鳴ったのは町の時計台の鐘だったのでしょうか、あるいはお城の鐘だったのでしょうか、この細かさは驚きです。
これに対して、日本では、オランダから定時法の時計が入ってきても生活の時間(=不定時法)を変えることをせずに、不定時法に合わせて時計を工夫することで、不定時法がそのまま続けられていました。
松尾芭蕉が曽良を伴って奥の細道に旅立ったのは、元禄2(1689)年3月27日のこと。ペローの本が出されたころです。芭蕉一行は、4月16-17日と雨で高久の角左衛門宅に泊まり、18日に那須湯本にむかいますが、同行した曽良が記した「旅日記」(⑤「芭蕉 おくのほそ道)岩波文庫)には、
 
巳三月廿日、同出、深川出船。巳の下尅、千住に揚ル。
・・・
十八日 卯尅地震ス。辰の上尅、雨止。午ノ尅高久角左衛門宿ヲ立。暫有テ快晴ス。馬壱疋、松子村迄送ル。此間壱リ。松子ヨリ湯本へ三リ。未ノ下尅、湯本五左衛門方へ着。
 
と書かれています。
深川の庵を出たのが三月廿日となっていますが、これは当初の予定がそうだったようで、二十七日の間違いです。いまの陽暦では5月9日です。「巳の下尅」の尅の字は刻です。一刻を上中下と分けていました。巳の刻は10時(9~11時)ですから巳の上刻は、9:00-9:40、巳の中刻は9:40-10:20、巳の下刻は10:20-11:00頃を指しますから、千時に着いたのは今でいえば10時半過ぎというところでしょうか。
十八日というのは4月です。高久の角左衛門宿を主辰するとあって、那須でのことですね。巳の下尅、卯尅、辰の上尅と時刻が書かれています。
「3月20日に深川を船で出て、千住に10時半過ぎに着いた。
4月18日卯の刻(4:00)に地震があって、辰の上刻(5:40)に雨が止む。午の刻(12:00)に高久の角左衛門宅を出発してしばらく快晴。馬を一匹松子村まで送る、此の間1里。松子村から湯本まで3里。未の下刻(15:20)に湯本の五左衛門方に到着する」というあたりでしょう。
辰の上刻は、5:00~5:40の間です。1689年の旧暦4月18日は、現代の5月20日ころ。卯の刻=4:00なので日の出直前に地震があり、辰の上刻5:30頃に雨が上がったことになります。曽良はなぜこんなに正確に時間がわかったのでしょうか?
芭蕉は、江戸深川の「芭蕉庵」にいた44歳の貞亨4(1687)年に、
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
と詠んでいます。お江戸深川で、時報の鐘の音を聞くのは当然としても、曽良の報告は那須でのことです。この時代には、ほぼ全国のお寺で時を知らせる鐘を鳴らすようになっていたようです。しかしそれは、不定時の刻限の時報でした。これで、曽良もほぼ何時かを知ったのではないかと思います。
定時に進む機械時計がヨーロッパで発明されたのは14世紀中頃です。これがアジアにやってきたのは16世紀末から17世紀にかけてで、日本には1551年に宣教師のフランシスコ・ザビエルが周防の守護大名である大内義隆に機械式時計を献上したのが最初と言われています。
時代の先端を行くこのハイテクメカに対する対応法は、受け入れた国ごとにそれぞれ大きく異なっています。
例えば、中国では、最新のハイテクメカが広く活用されることはなく、宮廷内でむなしく時を刻む皇帝用の高級玩具の域を出ませんでした。このメカを目の前にして、自分達でも作ってみたい、国中で使用したいというような動きにはつながらなかったようです。アジアの他の諸国でも同様です。
これに対して、日本では積極的にこれを使用し、自分たちの環境でも使いたいと当時行われていた不定時法に合うように工夫し、「和時計」と呼ばれる、世界的にも珍しい独自の機構を備えた時計を作り上げてしまったのです。
新しいきっかけを得て、現実の仕組みそのものを変えてしまおうとするヨーロッパと、仕組みを変えずに道具を工夫して現場で対応しようとする日本、この違いは、大きなものがあります。
定時法は、時間の進む速さは常に一定ですから、時計作りは難しくありません。そのため、ヨーロッパの国々では時計産業が発達し、時計を持つことはステイタスのシンボルになっていきました。
 
「フランスでは特に、時間を正確に測定するよりも、装飾的な価値が優先され、16~19世紀まで、高貴な人の肖像画に、置時計や懐中時計をこれ見よがしに描き入れることが流行した」
 
と京都産業大学文化学部・成田知佳栄は⑥『フランスにおける時計と労働』で書いています(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/narita(04-1-30)。

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