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泉谷閑示「『普通がいい』という病」講談社現代新書


健常者と異常者の境目とは何なのか?
中原中也は「病的である者こそは、現実をしっているように私には思える」といっているように、正常を約束しているものは世間一般の常識などに過ぎない。

「ノラの家」で最後にノラが「妻、母親である以前に自分自身に対する義務」をもって家を出て行くとき、夫は「きっと病気だな、正常ではない」と切り捨てる展開も同じコンテキストだ。

健康にこだわっていること自体が実は非健康的だという事実に誰も気がついていない。「神経質」というレッテルには「感受性が豊か」、「頑固」には「自分の主張がしっかりしている」という言葉で張替えができる。これを「言葉の垢を落とす」行為とジョン・コクトーの言葉を引用しつつ論は展開されている。

「孤独」「癒し」も然りである。著者は精神医であるだけに、特に人間の仕組みに関しての観察が鋭い。①頭=理性の場所であり、二進法を基礎に動いている部分で、得意分野は過去と未来。何でもコントロールしたがる。欲望はここから出ている。

期待はずれなどの浅い感情もこの部分。②心=欲求・希望の場所であり、「今・ここ」にシャープに反応する。深い感情の発露。③身体=心と直結しており、密接に連動している。と分類しているあたりが面白い。我々が感情と呼んでいる部分は頭の部分にも属しているのだ。

また、ニーチェの論を原型をしっかり留めつつ、こんなにわかり易く提示してくれた本も珍しいだろう。俺は駱駝・獅子・小児で表された「小児」に向かって感性を高めていきたい。もちろん、その最大の鍵は経験にある。直接経験と間接経験を重ねつつ、成長していきたい。

<メモ>
・人を救うということは自立させることだ。「癒し」にはそれがない。(横尾忠則「横尾流現代美術」平凡社新書)

・病気や苦しみは、天からのギフトのようなもので、その中にとても大切なメッセージが入っている。それは<不幸印>という包装紙に包まれているので嫌われるが、それを受け取らない限り、何度でも配達されるのである。

・ドストエフスキーの描く苦悩は読書によって得られたものではない。本物の試練、地獄、緊張の経験があった。彼は内的経験において深い作家だ。(「シオラン対談集」法政大学出版会)

・ジョンコクトーは言葉の手垢を洗濯せよといった(ジョンコクトー「世界の詩論」中「職業の秘密」青土社

・人間の仕組み
①頭=理性の場所であり、二進法を基礎に動いている部分で、得意分野は過去と未来。何でもコントロールしたがる。欲望はここから出ている。期待はずれなどの浅い感情もこの部分。
②心=欲求・希望の場所であり、「今・ここ」にシャープに反応する。深い感情の発露。
③身体=心と直結しており、密接に連動している。
・けもの的な邪悪さは、実は理性から作り出されている。
・直観というものは理性を超える洞察力をもっている。これは使えば使うほど精度が上がっていく。

・「肉体はひとつの大きい理性である」(ニーチェ「ツァラストゥストラ」)

・アダムとイブの「善悪知恵の果」は「二元論の獲得」という意味を含意している。それこそが現在なのだ。

・デカルトの「われ思うゆえに我あり」よりも「内なる自然(心=自然)」の方が広がりが大きい。

・風邪のときに食欲がなくなるのは自然なこと。無理やり食べさせるのは間違い。

・北風方式は、対象を捻じ曲げたり破壊してしまったりするのに対し、太陽方式は対象に真の変化をもたらす。

・感情の井戸の中で一番上にあるのは怒り、その次が哀しみ、喜び、楽しさである。我々は感情を差別している。しかし、ネガテイブな感情ほど早期に出してしまわなければ感情は腐敗する。怒りを吐き出すためのノートが必要だ。

・理性は誤るとしても、感情(=深い流れ)は例え破滅に至っても正しいといえる。これをニーチェは運命愛と呼んだ。

・ツァラトゥストラに出てくる駱駝・獅子・小児は人間の変化成熟のプロセスを見事に表現している。しかもその成熟への変化を「没落」と表現している。しかし、それこそが「昇天」ならぬ「超人」への道なのだ。

<駱駝=従順・忍耐・努力・勤勉><獅子=世間に怒り爆発させ、攻撃的な人間><小児=創造的遊戯・クリエイトな人間・ゆるぎない自分の存在>・・・この世では駱駝がよしとされている。

・真の、大きな怒りはそれ自体がクリエイティブである。

・「孤独でつらい」という場合「孤独は良くない」の意味が含まれているが、これは孤立のことであって、個が独立した存在としてある孤独本来のさすものとは違う。孤独は必然的に全ての人間が背負っていることだ。

・ペ二シズム(厭世主義)は孤独の肯定者としての優越感情に浸っているが、これはニーチェのいう「死の説教者」であって大事なことは「孤独の風景」を描くことだ。日々自分らしく、自分に必要な関係をもちつつ生きることだ。その風景には万有引力(孤独をひきつける力=愛)が働いている。愛は孤独であることを前提としている。

・愛とは、相手が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。

・欲望とは、相手がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。

・「人のために善いことをすると書いて偽善」(相田みつを)単なる同情心から生まれたものは、感謝を期待するものは、愛ではなく、偽善だ。だからボランテイアは生きがいを求めてやるべきことではない。弱者を助ける名目で利用してはならない。

・経験は「いきているもの」体験は「死んでいるもの」森有正

・一つを極めた人は地下水脈まで到達しているから万事に通じるが、浅い水脈の人は自分だけ。

・メイメント・モリ(ラテン語で「死を思え」「死を忘れるな」)=死を横において始めて自分の生き方が鮮明になる。


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