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永山則夫「無知の涙」河出文庫


1968年、世界史の大転換となる年に日本中を震撼させた連続射殺事件(犠牲者4名)が起きた。

犯人は当時19歳の永山。網走無番地で極貧の中でのネグレクト、親の逃亡、兄弟からの虐待という最悪の環境下で育った永山が69年に拘束、獄中において猛烈に本を読み「自分がなぜ殺人を起こしたか」の謎を考察する。

この「無知の涙」には全部で10冊のノートの記録が綴られているが、無学の青年が書いたとすれば、奇跡に近いものがある。

殺人という犯罪は確かに許しがたいものであるが、私達は殺人=悪人=死刑に処すべしと単純に片づけてしまっていないだろうか?世界の半数以上の国で死刑が廃止されている中で、日本は死刑を固辞しているが、このことに関して何の議論も湧き上がってこないのは「思考停止国家」の一現象と言えるかもしれない。

永山は「死刑は必要であるが、凶悪犯にはかえって再犯罪を犯すトリガーになる」といっている。「死刑になるという観念」の内部をえぐりだしている。

また、死についても「神は死んだ!で済ませてはいけない。だから宗教家が跋扈するのだ。死を食い物にする宗教家の偽善を許してはいけない」といった社会的な発言も展開しつつ、話はギリシャ哲学・実存主義・弁証論・マルクス主義・フロイト・・と広範囲に渡って考察がすすんでいく。

ノートが進めば進むほどその語彙は高度化し、その語彙を咀嚼して論を展開している。ノート8に至って彼は初めて「私の探し求めていた人物に出会った気がした」と語っているが、その人とは1958年小松川事件を犯し、異例な早さで死刑執行になった在日朝鮮人李珍宇である。ちなみにこの事件は冤罪の可能性もある事件らしい・・。

彼の書いた「罪と死と愛と」に畏敬の念を抱きつつ「あなたのような道端の石(後にその石で革命が起こせるの意)になりたい」「君の道へ、君の次に進んで行こうと考えている」とまで言わしめている。死刑囚が故に同じく死刑囚の内面を真摯を考察しているのだ。

ノート9になってやっと彼は犯罪の伏線として定時制学校に通っていた当時ドストエフスキーの「罪と罰」「白痴」との出会いがあったことに触れている。自分自身の中の謎を解いていった上での記述とも言える。「物事を知っていくということは自分自身を知る過程である」のだ。

そう、彼は獄中でそれを実践した。そして彼を理論的に心酔させたのはマルクスであり、精神的には李珍宇であった。彼を批判するのは簡単だ。しかし思考を止めてはいけない。その思考があたらしい教育を生む。俺はそう捉えた。

「私は発見した。自分の無知であったことを、そしてこの発見はこの監獄で少しばかりの勉強の功であることもである。私は囚人の身となり、もはや遅しである。世の中ままならぬである。このような大事件を犯さなければ、一生涯、唯の牛馬で終わったであろう」(永山則夫)

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