見出し画像

マックス・ヴェーバー「職業としての政治」岩波文庫

「君主論」にならぶ政治学のテキストである。俺が政治云々とかいうのも、ちゃんちゃら可笑しいが、参院選が近づく中、まったく無関心ではいられず、書棚にあった本著を取り出して再読してみた。

この本が出た1919年は第一次大戦に敗れた混迷を極めるドイツ。その時代に「天職としての政治家」を待望していたヴェーバーの切実さが生々しい。下記の言葉に彼の哲学は凝縮されているように感じる。

政治家の資質について考えると、それにあてはまる政治家はほぼ皆無のような気もするが、そうでないと、右肩下がりのニッポンの未来は明るくないということだろう。
本文から重要だと思われる箇所を4つ書き留めておきたい。

1.「政治家にとっては情熱・責任感・判断力の三つの資質が特に重要である。(中略)情熱は、それが仕事への奉仕として責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、初めて政治家を作りだす。(中略)すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受け止める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。」
・・最近の司法判断をみる限り国としての責任感は皆無だと感じる(残念!)

2.「政治とは情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり抜いていく作業である。もしこの世で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、全く正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。」

3.「可測・不可測一切の結果に対する責任を一身に引き受け、道徳的に挫けない人間、政治の倫理が所詮悪をなす倫理であることを痛切に感じながら、『それにも関わらず!』と言い切る自信のある人間だけが、政治への『天職』をもつ」

4.「指導者に重要な資質はデマゴーグ的な雄弁の力である。」

<メモ>
・修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつこと、これだけは何としても欠かせない条件である。

・興奮は真の情熱ではない、少なくとも真の情熱とは限らない。

・倫理に方向付けられた行為は心情倫理と責任倫理という二つの準則の下に成り立っている。

・結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理に従って行動する、成熟した人間がある地点まで来て、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」というなら、計り知れない感動を受ける。これは人間的に純粋で魂をゆり動かす情景である。なぜなら精神的に死んでいない限り、われわれ誰しも、いつかはこういう状態に立ち至ることがありうるからである。その限りにおいて、心情倫理と責任倫理は互いに相俟って「政治への天職」をもちうる真の人間をつくりだすのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?