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【9000字くらい】チーズナン 酒 33歳【椅子さんへ】

チーズナン 酒 33歳

仕事が終わった。今日はみんなが早々と職場を後にしている。僕もそれと同じように事務所を出て、電車に乗る。辺りを見回してみると、いつもより人気が少ない気がした。そして心無しか電車に乗っている人達が皆、何かを諦めた表情をしているような気がする。いや、きっと気のせいではないだろう。駅からアパートへ向かう道のりをゆっくりと踏みしめる。すれ違う人達もまばらで、商店街の明かりもいつもよりおとなしく見えた。正面から親子が歩いてくる。真ん中にいる子供は嬉しそうに笑顔を浮かべ、両親と手を繋いでいる。両親が子供のジャンプに合わせてそれぞれの腕を引き上げると、子供はフワリと宙を浮いたように飛び上がり歓声を上げる。絵に描いたような幸福がそこにあった。その姿を見ている両親はとても幸せそうで、物悲しい表情でもあった。その親子とすれ違おうとした時、子供が言った。「明日もお散歩しようよ!」両親は一瞬目を大きく開いて顔を見合わせる。2人とも涙を流し始めたが、口元にはとても優しい笑顔を浮かべていた。「そうだね。そうしようね」2人で子供を抱きしめる。突然の両親の抱擁に子供は戸惑ったようだったが、すぐに「約束だよ!」と言い満足そうな笑顔を浮かべていた。

アパートに着き部屋の鍵を開けると、音もなく部屋に滑り込む。手探りで電気のスイッチを探すが、引っ越して来たばかりで位置が定まらず、壁をペタペタと触る。スイッチを探り当てると人工的な灯りが点き、思わず目を細めてしまった。部屋の奥にはまだまだ付き合いの浅い子猫がいる。ケージのハンモックで眠っていたようだが、電気が点いたことで目を覚まし、頭をこちらに向け、短く鳴いた。いつかペットを飼う。そう決心してペット可の物件を選んだが、まさかこんなにも早く猫を飼うことになるとは思わなかった。

ピンポンとインターホンがなる。パタパタと玄関に向かいドアを開けると、いい匂いの袋を持ったあなたが立っていた。「仕事、早かったんだね、ありがとう」僕がお礼を言うと、ニコリと笑ってあなたが答える。「今日はやっぱりみんな早かったのよ。カレー、早く食べましょう?私お腹すいちゃった!」時間が勿体無いと言わんばかりに、あなたは玄関に靴を脱ぎ捨てスタスタとリビングへと入っていく。知り合ってそれほど時間も経っていないからか、まだあなたとの距離感が正直よくわからない。もっとあなたの事を知りたかったなぁとぼんやり思った。脱ぎ散らかした靴を揃えてリビングへと向かうと、あなたはケージを開けたところだった。ヨチヨチ歩きの子猫がケージから飛び出し、一丁前に伸びをすると、床に敷いたラグマットで爪を研ぎ始める。本当ならちゃんとしつけをしないといけないのだろうが、まぁいいかと思った。それよりもその姿を見つめるあなたが僕には可愛く見えて仕方ない。ちょこんとお座りをしている子猫の顎をあなたの細い指がこそぐると、子猫がグルグルと喉を鳴らす。「この子は幸せね」あなたが小さく呟く。「どうしてそう思うんだい?」僕の質問に対してあなたは優しく、そして柔らかく微笑むだけだった。

少し前に、全く予期せぬ事が起こった。アパートに引っ越してきたばかりの僕が荷物を整理しているとスマホが電子音を叫ぶ。普段あまり鳴らないスマホに誰が何の用だと思いロック画面を見ると、俄かに信じがたいニュース速報が横たわっていた。

『世界終了のお知らせ』

これは何かのイタズラか?それともドッキリか?怪訝に思ってそのニュース速報をスワイプすると詳細とは言い難い詳細が明らかになる。『20xx年○月○日に世界が終了する事が明らかとなった』ニュースというモノの本質を間違っている気がするが、なんとなく、ただなんとなくそのニュースを疑うこともなく、そうなんだ。と消化しようとしている自分がいる。驚いてはいる。時差はどうなんだろう。日付変更線とか、グリニッジ標準時とか?考えても意味のない疑問が浮かんでは消えるが、何故か、それはそれで仕方ないのかもしれないと思った。誰かにこの件について連絡してみようかと考えたが、結局何かが変わるわけでもない気がして手を止める。少しだけうーんと物思いに耽ってみたものの、答えは出そうにもないから、仕方なく日用品の買い出しにいくことにした。

まだ使い慣れていない色気のない鍵でドアに鍵を閉める。もし鍵を落とした時にすぐ気付けるように鈴でもつけた方がいいかもしれないと思った。しかし世界はそのうち終わる。それを思い出した途端どうでも良くなってしまった。むしろ鍵すらかけなくてもいいかもしれない。アパートの階段を降りていく。すると住人共同のゴミ捨て場に1人の女性が座り込んでいた。どこかで見たことがある人だと思っていたら、昨日引っ越しの挨拶をしたばかりの隣の住人だった。「こんにちは」素通りするのもどうかと思ったので、小さな声で挨拶をする。太陽が西の空に傾いているから、こんばんは、の方がよかったかなと思った。女性はその声でやっと僕に気付いたようだった。「あぁ!どうも!」そう言いながら焦ったように立ち上がり頭を下げる。そこまでしてくれなくていいのにと思いながらこちらも頭を下げる。「お買い物ですか?」真っ直ぐに目を見て話す人のようで、なんとなく視線を逸らす。すると逸らした視線の先には『拾ってください』と書かれた段ボールがあった。何も言わずに女性の横に並び箱の中身に視線を落とすと、そこには小さな白い毛玉があった。子猫が眠っている。僕は驚いて女性の顔を見る。「この状況で眠れるって凄いと思いませんか?」女性が口に手を持ってきてクツクツと笑う。特別に美人というわけではないけれど、笑顔が可愛い人だなぁとぼんやり思っていると、女性の笑い声に反応したのか、白い毛玉がフンスと鼻を鳴らし目を覚ました。小さな体をいっぱいに伸ばし、手足の指の間まで広げている。しかしまだ眠いのだろう、目を瞬かせながら再び目を閉じようとしている。フニャフニャと鳴き声のような声を出したがきっと寝言なんだと思う。女性はその場にかがみ込み、人差し指で子猫をこそぐっている。グルグルと喉を鳴らす猫の姿はとても可愛かった。「あなたは…」僕は1つ確認しておきたかった。あと、もしかしたら現実の話ではなかったと思いたかったのだろう。

「もうすぐ世界が終わるのを知っていますか?」

女性が顔を上げる。その瞳には憂いか、それとも慶びか?よくわからない何かが宿っているように見える。「ええ、知っていますよ?」その言葉が無機質に僕の鼓膜を震えさせ、脳へとその情報を伝達する。ああ、やはり嘘ではなかったんだ。少しだけ。ほんの少しだけそうじゃ無ければよかったのにと思っていた。しかしどうやら嘘じゃない。きっと。この女性が言うのだから間違いはない。「ニャー」子猫がもっと撫でてくれと言っているのだろう。見た目に似合わないほど大きな声で鳴いている。「この子は、捨てられたんですかね?」僕は女性の隣にしゃがみ込みながら言う。「どうなんでしょう?拾ってくださいと書いてあるし、タオルも置いてあるから、ただ単純に捨てられたと言うわけではなく、何か理由があって飼えなくなった、ということなのかもしれません」本当にそんなことがあるのだろうか?「僕はそうは思えませんね」そっと指を差し出して、子猫の狭い額を指先でくすぐってみると、子猫は目を細める。そのまま顔の下の喉を撫でると泣き声を出さずに鳴いた。「それでいいんじゃないですか?」肩口で揃えられた真っ黒な髪が風に吹かれてさらりと揺れる。「あなたが私の言葉を信じる必要は無いですから。それに、もしかしたらこの子猫を捨てたのは私かもしれないでしょう?」何を言っているんだろう。僕にはよくわからなかった。しかし細かいことを考えても仕方がない。「この猫、どうするんですか?」僕が聞くと女性は眉をハの字にする。「連れて帰ろうかと思ったんですけど…私、猫は飼ったことがないからどうしようって躊躇しちゃって」なるほどそういうことかと納得すると、僕は子猫を両手でソッと抱き上げる。まだ寝ぼけているのか、それとも驚いたのか。四肢をピンと伸ばし固まっている。「じゃあ、僕が引き取りますね」女性が目を丸くし「えっ?」と言い、こちらを見ている。「僕は猫を飼ったこともあるし、そのうち飼おうと思っていた所なんですよ」そう言いながら子猫が入っていた段ボールを拾って、さっき出てきたばかりの部屋へ戻ろうとする。その時、肩を掴まれ僕の足が止まった。「あの、えっと、私に何かできることはありませんか?」

あなたがケージを開け、リビングに降り立ったばかりの子猫は、転がっていた鈴を前脚でそばえては追いかけまわし、時折両の前脚を広げて二本足で立っている。きっと自分自身をを大きく見せようとしているのだろう。可愛らしい威嚇と攻撃に敵役の鈴がリンリンと鳴る。ラグマットの上を転がる姿が愛おしかった。そんな光景を眺めながら、あなたが買ってきてくれたカレーとビールをローテーブルに並べていく。「最後の食事がこれでよかったのかい?」僕がそう聞くとあなたは含みを持たせた笑顔を浮かべた。「どうしたんだい?」その表情に僕は質問を重ねる。あなたは何も言わずにビニール袋から最後の1つの入れ物を取り出すと誇らしげに言い放った。「今日は贅沢なのよ?」袋から出てきたのはナンではなくチーズナンだった。「思い切ったねぇ」褒めて欲しい。と顔に書いてあるあなたに微笑みかける。「最後の晩餐にふさわしいでしょ?」「全くだね」そう言いながらクスクスと笑い合った。

共同のゴミ捨て場から子猫を小脇に抱えて、さっき出たばかりの部屋に戻る。「色々と買い揃えて来るので子猫をここでちょっとの間見ていてもらえますか?」後をついて来て玄関に立ち尽くしている女性に僕はそう伝えた。「え、あ、はい」なぜか焦っている様に見えたが、特に気にもしなかった。「部屋の間取りは同じだから不自由ないですよね?引っ越して来たばかりなので…あ、挨拶したばかりですし知ってますよね。とりあえず子猫をお願いします。前脚で地面をカサカサし出したらトイレかもしれないのでラグマットにさせないでもらえると助かります。と言ってもわかりませんよね。とりあえず逃げ出さない様にだけしといてもらえますか?なるべく早く帰りますのでくつろいでいてください」そう伝えると女性はコクコクと頷いので、部屋に招き入れると、入替りに僕が部屋を後にした。

買い出しに行ったのは小一時間だったと思う。近くのホームセンターで猫を飼う初心者セットとごはんを買った。本当は大きなケージを買おうかと思ったけれど、もうすぐ世界が終わるのだから、その必要も無いと思うと何とも言えない気持ちになる。しかし、急に突きつけられた事実に対して意外と心が動く事なく冷静でいられるものだと思った。そんな事を考えながらホームセンターの軽トラを借り部屋に戻る。重い荷物を何とか2階まで運びこみ、部屋のドアを開けると、ラグマットで眠る女性とそこに寄り添う子猫がいた。あまりにも優しい光景に、自分の家にもかかわらずズカズカと上がり込むことに気が引け、そっと荷物だけを置き、再度部屋を出て軽トラを返しにホームセンターへと向かう。軽トラを返した後、歩いて帰路につくと、アパートが見える場所に来たところで体が怠くなってきた。
軽トラを借りているのだから実際徒歩では一往復しかしていないはずなのに、何だかとても疲れた気がする。そういえば世界が終わるというニュースを見てからずっと子猫の事を考えながら動きっぱなしだった。ふと改めて1人になって今の状況を整理してみようとする。道路を走る車の量はおそらくいつも通りといったところか。ホームセンターに人はいたし、道行く人々もいる。皆それほど取り乱している様子もない。やはりあまりに現実とかけ離れているから、すぐに受け入れることができないのだろうか?もしかしたらそこかしこで暴動と言った略奪行為が横行したり、世紀末のような世界観になると思っていたが、少なくとも今この周辺では今まで通りの生活が続いているようだった。
改めて帰宅すると女性はまだ眠っていた。胎児のように体を丸めている。警戒心のない人だなと思った。子猫がいないと思い部屋を見回してみると、レースカーテンの向こう側にチョコンと座り、外の世界を見ている。その後ろ姿が可愛らしくて、自然と頬が緩んでしまう。猫背というのはこういう事なんだと思った。
子猫用のふやかしたカリカリと水を、買いたての器に入れる。その音を聞きつけたのか、子猫はトテトテとリビングからキッチンへと走ってきた。お腹が空いていたのだろう。小さな体に似合わないほどの大きな鳴き声でご飯をねだってくる。その皿を床に置くと、子猫はあむあむと言いながら食べ進んでいきクチャクチャという咀嚼音が響く。
「あの、すいません」ラグマットに転がっていた女性は、いつの間にか起き上っていて僕に向かって声をかける。「子猫が寝ているのを見ていたら、その、眠くなってきて…一緒に寝てしまいました」子猫を見ていて欲しいと伝えて家を出たのに眠ってしまったのが申し訳ないのだろう。下を向いてボソボソとそう言う。「あの!でも勘違いしないでください!」女性は急に少し声を荒げた。「初めて会った男性の家に上がって眠りこけるなんて!いつもこんな事をしているなんてことはありませんので!」よほど今回の行動を反省しているのだろう。「私はこの子猫が心配だったのと、『世界終了のお知らせ』を見てから気持ちがざわついてしまっていたんです。でも子猫の穏やかな寝顔を見ていたらつい眠っ…「わかりました。あなたは軽率な女性ではないし、様々な状況が重なったから眠ってしまった。そういうことですよね?」僕は女性の話を遮りそう言う。まぁまぁ落ち着いてとジェスチャーをしながら。何か物言いたげな表情ではあるものの小さな声で「そうです」と言うと、下を向いてしまい頬が赤くなっていた。「子猫と留守番してくれてありがとうございました」僕は下を向いている女性に声をかける。女性は一度顔を上げると再び下を向き「眠ってしまってごめんなさい」と改めてお詫びの言葉を口にする。きっと素直な女性なんだろうと思った。「ケージを組み立てるの手伝ってもらえますか?」おずおずと女性は顔を上げる。「多分コイツ。ケージを組み立てるの邪魔してくると思うんで手伝って欲しいんです」足元にいる白い子猫は僕たちの顔を変わりばんこに見上げている。「私犬しか飼ったことないから組み立て方わからないけど大丈夫ですか?」その顔はとても嬉しそうな表情だった。
それから女性は子猫の様子を見るために家に訪ねて来るようになった。残り少なくなった日々に意味を持たせるかのように。そして、1人でいる不安を紛らわせるように。

僕達は並んで座っていた。ローテーブルに並んだカレーは大方食べ尽くしたものの、3分の1程チーズナンが余っている。「重かったよね」あなたは立ち上がり胃の中の物を下に落とそうとしていた。「チーズの存在感の凄さったらないね」僕はその場に寝転がった。点けっぱなしにしてあるテレビは、緊急時のような画面割りになっていて、世界が終わる時間のカウントダウンが進んでいく。『この世界もあと○時間で終わりを迎えます。皆さん、世界の終わりが告げられてから、後悔のない生き方はできましたでしょうか?会いたい人や話したい人、感謝を伝えたい人と繋がることができましたか?それとも憎い仇を打ちましたか?終わりを悲観して先にこの世を去った人もいるかもしれませんね。孤独な人生だったと嘆きますか?幸せな人生だったと喜びを噛み締めますか?何をどう思った所で世界の終わりは平等です。これまで私はアナウンサーとして、皆様にニュースをお伝えしてきましたが、今日で最後になります。本当にありがとうございました』テレビの画面がどこかの風景の映像に切り替わる。無機質なカウントダウンを残して。

「本当に終わるのかな」

あなたがポツリと呟く。子猫がテレビに映るカウントダウンの数字を、必死に捕まえようとしていた。僕はあなたの隣から立上り、テレビの前で遊んでいる子猫を片手でひょいと掴み上げる。イヤイヤをする子猫を赤ちゃんを抱くようにそっと抱き直した。顔全体でクエスチョンマークを表す子猫が可愛らしくて、いじらしかった。そのまま狭い額を指先でくすぐると喉を鳴らし始める。そのままあなたの隣に座り直すと、あなたは子猫の顔を覗き込む。この光景は側から見たら赤ん坊を慈しむ夫婦のように映っただろう。僕は少し前に33歳になった。もしかしたら今隣にいるあなたが僕の妻で、抱いているのが子猫ではなく、赤ん坊だった未来があったのかもしれない。そう思うとなぜだかわからないけれど急に今の状況が怖くなってくる。

本当に終わりなのか。

あなたと子猫がいたから、今この瞬間まで静かに、穏やかに生きられただけだったんだ。しかし、いざ終わりが近づいてくると、これまでの人生で成し得なかったこと、これからの人生で手に入ったかもしれない未来が頭をよぎる。しかしそんな事を考えたところで世界は終わる。自然と僕の目から涙が溢れてくる。ポトリと子猫の首元に涙が落ちると子猫は弾けるように僕の腕の中から飛び出して行った。

「どうしたんですか?」あなたはケージの中で小さくなっている子猫と僕に視線を交互に向ける。「時間がもう無いと思ったら、何だか急に侘しい気持ちになってしまって」これほどうまく今の気持ちを表現する言葉はないだろう。「あなたは今、どんな気持ちですか?」僕はあなたに問う。「うーん。とりあえず…お腹が一杯で幸せですね」ニコッと笑ってそう言った。「あとー。子猫がコロコロと可愛くてそれを見ているのが幸せです。あとー」あなたはうーんと、首を捻る。「あなたみたいな不思議で優しい方と出会えて幸せです。何も特別な事が起こらなかった毎日を繰り返していたのに、世界が終わるーとか、子猫と男の人が急に迷い込んできたりー。とか?本当に毎日が刺激的でした!もっとこの時間が続けばいいなーとも思いますが、終わっちゃいますしねぇ。でもまぁ、終わる直前に幸せな事がたくさん起こったからとてもいい気分です!」あなたはそう言うとクツクツと笑い、テーブルに残ったチーズナンに手を伸ばし小さくちぎってから、僕の右肩に頭を乗せる。モグモグとチーズナンを食べながらあなたが「今どんな気持ちなんですか?」と聞いてくる。今度は僕のターンらしい。子猫は、場が落ち着いてきたのを感じてケージから恐る恐るこちらに向かってくる。「僕は33年間生きてきた。普通に生きて、普通に結婚して、子供ができて、たまに酒を飲んだりして、歳をとって死んでいくものだと思っていたんだ。でも世界が終わるとわかってから、過去や未来の事を考えようともしなかった。だから今になって怖くなっている。勿体無い時間を過ごしてきたんじゃないか。これからという人生があったんじゃないかって。世界もその内に終わるというのに」少しの間沈黙が続く。その時あなたが口を開いた。「それでいいんじゃないですか?」少し前にも聞いた言葉だった。「これから先のことは何ともいえませんね。でも忘れないで。あなたが生きてきた33年という時間は間違いなくあった。それが無かったら今あなたはここにいない。当然私達とも出会えなかった。この瞬間はなかったんです」あなたはそう言いながら、僕の右肩に乗せていた頭を上げると、右腕を背に回し僕と抱き会う体勢になった。あなたの左手が僕の後頭部を撫でる。「大丈夫。怖くないわ。私がいる。子猫もいる」親が子を慈しむようゆっくりと放たれた言葉が耳許で響く。あなたがきつく抱きしめてくれているように、僕もあなたを強く抱きしめる。「もう大丈夫。怖くない。君がいる。子猫もいる。だから怖くない」さっき僕はこれまで生きてきた時間、33年間を否定しそうになった。けれどあなたは僕達がここで共に世界の終わりを迎えられるのは、僕がこれまで生きてきたからだといって僕を肯定する。あなたの言葉が琴線に触れ、それほど長くない付き合いなのに、色んな姿を見せてくれたなぁと思う。共同のゴミ捨て場で子猫を見ているあなた。僕の部屋で子猫と眠りこけているあなた。嬉しそうに最後の晩餐を買って来てくれたあなた。今僕を抱き締めているあなた。もうすぐ世界が終わるかもしれないけど、こんな気持ちになれた幸せを噛みしめる。あなたの胸元で、あなたの香りに包まれながら。

抱き合っている僕らはそのままラグマットの上に寝転ぶ。仰向けになった僕の胸元にあなたの頭がある。よちよち歩きの子猫がこちらに寄ってきた。僕の体にヒョイと飛び乗り、あなたの顔の前で体を丸めると、口元をモチャモチャいわせている。『世界終了のお知らせ』がスマホに通知されてからそれほど時間は経っていない。もしこの瞬間を1人で迎えていたらどうなってしまっていただろうか。過去を恨み孤独に耐えることができずに泣き叫んでいたのかもしれない。そんな事を考えながら僕はあなたと子猫の温もりを、心地よい重さで感じている。時間が止まればいいのに。そう思ったが、テレビ画面に映るカウントダウンはもう少ない。

「何だか、眠くなってきたわ」あなたは目を閉じたまま言う。いつものような闊達な話し方ではなく、眠たそうにゆっくりと話すあなたが可愛いと思った。「僕も、眠くなってきた」このまま静かに終わっていくんだと思う。子猫も僕の上であくびをしている。「そういえばさ。子猫の名前。今思いついたんだ」僕は眠りそうになりながらあなたに話しかける。「なんて、名前に、するの?」どうやらあなたも相当眠いらしい。「クロノ。ギリシャ語で、時間はクロノスって言うんだけどさ。それにかけてみた。僕達に、幸せな時間をありがとう。あと、あなたと話す、きっかけと時間をくれて、ありがとうって、意味を込めて」気を抜くと意識が飛びそうだった。「白猫なのに…クロ、なのね」あなたは目を閉じたまま涙をこぼしている。そして柔らかい笑顔を浮かべていた。
「クロノ」僕が子猫の名を呼ぶと、丸くなり目は閉じたままで尻尾が少しだけピンとはねた。

カウントダウンがもう0になる。
僕は右手であなたの肩を抱き、クロノの小さな背中に左手を置く。あなたの体は暖かいがもう眠ってしまったみたいだ。クロノも小さいけれどちゃんと暖かかった。どうやら、僕ももう眠りにつく時間になったようだ。水面に、水滴が落ちて波紋が広がり、その波紋が元通りになるように意識が薄れていく。

「幸せをありがとう」

どこか遠くでクロノの鳴き声が聞こえた気がした。

終わり
©︎yasu2023


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