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【大体8,000字6分くらいで読める】月に吠える【狼神と特異な人間の話】

月に吠える

サラリとした月光を浴びる。毎日チカチカと騒ぎ立てる星達は、満月の月明かりのおかげでいつもよりも静かにしている。しばらくの間、月を見上げていると、少しずつ雲がかかり始める。美しい朧月だ、と思っているうちに、少しずつ雨粒が体毛に当たり出した。

雨が降ると鼻が効きが悪くなる。恨めしそうに空を見上げると、ちょうど私の瞳に雨粒が落ちてきた。痛くも痒くもないけれど、少しばかり驚いた私は頭を中心に体をブルブルと震わせる。毛についていた雨粒を吹き飛ばすと、フワフワとした柔らかな毛を取り戻す。もうすぐ換毛期に入るから、この長くなった毛ともしばらくお別れする事になる。そう思いながら毛繕いをしていると、想像以上に毛が抜け、それを喉の奥へと飲み下した。

ポツポツと雨足が強くはなっているものの、大きな広葉樹の太い根本に来た私にはそれほど大きな影響はない。しかしそれでも少しずつ地面がジワリと湿ってきた。肉球でそれを感じていると、少しばかり心地が悪い気がしてきた。けれど今更これ以上に雨露を防ぐ事ができるところを探すのも億劫だなと思う。

パキリ。

枝を踏む音が雨音に混じる。根本の枝はまだ濡れていないため、大きな音が鳴ったようだ。その音を聞いて、サッと体を起こす。音の方向に視線をやると、大きな黒い塊がうずくまっているように見える。いつでも飛び掛かる事ができるよう4本の脚にしかと力を込め、体勢を低くした。耳をピンと立ててみると雨音が大きく響いている中、何かが泣いているような声が音が聞こえる。匂いは雨のせいでうまく感じる事ができないが、間違いなく何者かの気配がある。けれどその何かはそこから動く気配がない。どうする?私はゆっくりと気配の元へと進んでいく。音を立てないようにできる限り体は低く。四肢の肉球で地面の感触をハッキリと感じられるほどに静かに、音を殺して。太い木の幹をぐるりと回ると、人間の10と4、5くらいの少女が泣き声を上げるわけではなく、ただ鼻をすすり、少しだけの涙をこぼしながら、控えめにしゃくりあげている。肩に少しかかるくらいの髪の毛は、ツヤツヤとしているが、涙で頬に張り付いているからか幼く見える。少し汚れた着物を着ているがボロ切れというわけではないので、貧しい家柄というわけではないようだった。

「お主、なぜ泣いている。いつからそこにいた」今度は少女がビクリと肩を跳ね上げ振り返った。誰が声を発したのかがよくわからないようで、キョトンとしている。「なぜ泣いている?」今度は少女が言葉を発しているのが私だとわかるように問いかける。「あ、え?」少女は目を丸くした。「狼が喋った」今起こった現実を確認するように呟く。少女は目の前にいる狼の金色の瞳をまっすぐ見つめた。「いかにも。私は今お主になぜ泣いているのかと問うている」まだ思考が追いついていないのか、少女は相変わらずポカンとしている。ただ、どうやら涙はもう止まったらしい。「狼って話す子もいるんだね」意外だと言わんばかりの表情でそう言った。「狼は話さない。私がただ特別なだけだ」少女は眉間に皺をよせ、首をかしげると、意味がわからないといった表情を浮かべた。確かに、見た目狼の私がいきなり人間の言葉を話せば当然の反応かもしれないと思った。「私は名をオオクチノマカミという」少女が目をまん丸くし「神様じゃないか!!」コロコロと変わる表情が真神にとって新鮮だった。「道案内をしたら成り行きでそうなっただけだ。それよりもお主。先ほどは泣いていたがもう平気なのか?」少女は自分が泣いていた事を忘れていたようだった。真神との遭遇で忘れていた事を思い出したのだろう、少女は俯き細く薄い体を震わせ始めた。人間とはよくわからん生き物だ。そうは思ってはみるものの、涙を流している少女の事を何故か放っておくことはできなかった。けれど何をどうしてもいいかわからない。真神は首も耳も尻尾も垂らすしかなかった。

パタパタと雨が降っている。少女は相変わらずシクシクと涙を流していた。なぜ泣いているのか?と問いたい所だが、既に3度も問いかけているから、聞かない方がいい事なのだろうと思いつつある。そんな事を考えていると少女は声を上げて涙を流し始めた。どうにも調子が狂ってしまう。真神はそっと少女の横に移動し、小さくカサリという音を立てて座り込んだ。その気配を少女は察したのだろう。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をあげると真神の金色の瞳をマジマジと見つめる。「何だ」少女は所々でしゃくりあげながら「瞳は金色できれい。それに言葉を話すから、いかにも神様って感じがするんだけど…」何かを言い濁っている。「何だというのだ?」質問をしてばっかりだなと真神は思った。意を決して少女が口を開く。「思ったよりも神様って小さいんだね」涙を流し続けていた少女は真神の想像の斜め上を行ったのだった。

少女も落ち着きを取り戻して来たようだった。スンスンと鼻を鳴らしてはいるものの、涙や鼻水は止まったらしい。小さいと言われた事は気にしていない。普段はあくまで仮の姿であって、常に本当の姿でいることはない。懇々と少女に伝えるも、明らかに疑いの目を向けている。「そんなこと言って。ほんとはただの話せる狼なんじゃないの?」この娘は泣きすぎて頭がおかしくなってしまったのだろうか?神を信じなかったとしても『目の前の話す狼』に疑問を持つのが道理であろう。真神は戸惑いを覚えたが、少女のあっけらかんとした雰囲気が嫌ではなかった。真神は行儀よく座っていた体を倒すと、少し濡れた枯れ葉の上に横たわる。「まぁ良い。お主がどう思おうが私がオオクチノマカミである事には変わりないのだから」久しぶりに人間と話したものだから少々疲れたらしい。少女がなぜ泣いていたのかが気になるけれど、今は問いを重ねる時ではないはずだ。そう思いながらゆっくりと目を閉じる。「あなたはちゃんと見える」横たわる真神の体に手を伸ばし、少女は笑顔を浮かべ、細い指で真神をフワリと撫でる。何がちゃんと見えるのか。そう聞こうと思ったが、質問ばかり浮かぶのが疲れてしまった。聞いた所でどうということもない。今はただ少女が私の体を撫でる手が心地よい。気づくと雨は止んでいた。少女の涙もどうやら完全に止まったらしい。

それから幾日が過ぎた頃、真神は以前雨の夜に少女と過ごした広葉樹に登り、太い枝の上で眠りについていた。既に陽が傾き、西の空が赤く染まっている。本来の狼ならばこれからが1日の始まりなのかもしれない。しかし真神にはそう言った常識は関係ない。寝たい時に寝て、食べたい時に食べる。体を起こすと4本の脚をグッと伸ばし、眠っていた体をじっくりと伸ばす。
その時真神の耳に人間が歩く音が聞こえてきた。何だろうと思っているうちに、「オオクチノマカミ様ー!」と呼ぶ声が響く。あの雨の日に1人で泣いていた少女だった。「オークチノマカミさまー!」消え入りそうに泣いていた娘の声とは思えないほどの大きな声に、真神は思わずニヤリとした。「ここだ」少女がちょうど枝の下あたりに来たとき声をかける。少女は驚いて顔を上げると真神の姿を見て笑顔を見せる。八重歯が少しばかり覗くその笑顔は太陽のようだった。

「そっちに行ってもいい?」真神は驚く。「ここまで登ってくるというのか?」「そうだよ。いい景色なんでしょう?」「薄物だからといって、娘が木に登るとはいかがと思うがな」少女は頬を膨らませる。やれやれといった風に真神は一度だけグッと体を伸ばした。「ここまで運んでやる」金色の瞳の瞳孔が少しだけ大きくなる。目に見えない何かが真神を包み、近くの小さな枝や葉がカサカサと揺れた。真神はゆっくりと前足を中空に差し出し歩き始める。まるでそこに地面があるかのようだった。少女は目が点になる。真神はそのままゆっくりと少女の元へとやってくる。階段を降りるような動作ではなく、緩い坂をゆっくりと降りているような動き。その姿は優雅で美しかった。真神が地面に足をつけるとカサリと草木を踏む音が小さく響いた。少女は目をまん丸くしている。「何を驚いている。このくらい何の造作もない。私の背に乗れ。いい景色を見たいんだろう?」少女はハッと気付くと、「そんな!神様の背に跨るなんて恐れ多いです!」「そんな事どうでも良い。早く乗れ。2度は言わんぞ」少女はその言葉を受け、恐る恐る真神の背に跨る。「重くない?」真神は何も答えず、軽やかに宙へと飛び立ち、空中を音もなく駆ける。少女の耳には真神が風を追い越していく音が響き、暮れてゆく夕陽だけが目の前に広がった。ゆっくりとスピードを緩めると真神は駆けるのを止める。少女は目の前に広がる光景に言葉も出なくなっている。「今日も、美しい」真神は呟く。少女は目の前の光景を視覚で咀嚼し、「本当ね。こんなにもこの世が美しいなんて考えたこともなかったわ」夕陽に照らされる少女の顔は美しくも儚い。細い手足から伝わってくる体温は温かかったが、少し引っかかる物言いだと思った。

空中の散歩を終えると、真神が先ほどまで眠っていた場所に2人で腰掛けていた。暮れてしまった夕日の代わりに、満月が空で輝いている。その月明かりのお陰で、前髪が顔にかかる少女の表情に影がかかった。溢れた涙に月明かりが反射し、少女の目から光が零れ落ちる。「なぜお主はいつも泣いているんだ?」少女は一つ鼻をすすり、溢れた涙を指で拭った。「私ね。人がいつ死ぬかがわかってしまうの」真神は一瞬だけ目を見開く。「いつからかもわからない。なぜそうなったのかもわからない。ただ、死が近くなってくるとその人の存在感というか、陰が薄くなるのがわかるというか…」真神にとって、命というものはそれほど重要なものではなかった。自分自身が実際に滅することがあるのかなど考えたこともないし、それほど興味も無かった。人間や、他の生き物の命の事などなおさら考えた事がない。初めて出会った時に『あなたはちゃんと見える』と言われ、その時少女が笑顔を浮かべていた事を思い出した。「お主は、ずっと涙を流して生きてきたということか」そう真神は言うと、少女はコクリと頷いた。「初めはこの違和感が何なのかわからなかった。わからないうちに違和感のある人達が死んでいったわ。お父やお母に聞いたこともある。あの人は大丈夫なの?って。2人は最初は何を言っているんだと笑っていただけだった。けれどそんな事が何度も訪れるにつれて、2人共私を気味悪がったの。村の人達もそう。少しずつみんなが私から離れていった。私が直接殺した訳じゃないのに。私が誰々を殺したんだって。そういう人もいたわ」真神はただ黙って少女の話を聞いている。「両親はね。この力を信じているわけではないの。でもね。何でこんなことになってしまったのか。何で普通であってくれなかったのか。そうやって言うの。そのうち周りも同じように言うようになった。もう私の事を本当の意味で見てくれる人間なんていないの」少女が一気にそう語る。ただ最後の方は悲しみに暮れたのか、声は消え入ってしまいそうだった。

真神は少女が泣いていた理由を理解する。「そなたはずっと、苦しんできたということか」薄く細い体がその苦しみを物語っている。少女は堰を切ったように話を続ける。「小さな時はまだ希望があった。この力を使って誰かを助けられるのではないか。人生の節目において突然この力が無くなるかもしれないとか。でも歳を重ねる毎に希望は無くなっていった。何もできない。ただ死に行く人を見守ることしかできない。むしろもう目を逸らすしかなかった。そうでもしないと自分を保つ事ができない。そう思っていた。そんな時、私が好いていた人が死ぬという事が判ってしまったの。そう。私は無力なくせに現実と向き合わなければならなかった。何をしていても、何を話していても。近く死に行く人間の言葉を耳にする時は身が裂ける思いだった。未来なぞ語ってくれるなと。なぜ私のような未来に希望も持てない役立たずが、将来に夢を描く者の終わりを知った上で、うんうんと相槌を打たなければならないのか。あなたはもうすぐ死にますよ。などどうしたって言えるわけがない!なんで!どうして!どうして私が!このような役回りとなったの!?私はもう疲れた!もうたくさんだ!」自分の置かれた理不尽な運命に少女は怒りを露わにする。真神は何も言わず放たれた怨嗟を受け止め続けた。

少女は嗚咽混じりに涙を流し続けていたが、半刻ほど経った時「ごめんなさい」と口を開く。真神は立てていた尻尾をパタリと地面に下ろした。「今まで誰にも言えなかった想いだったのだろう?」少女は小さく頷く。「私はもう知っているぞ。そなたが苦しんでいる事を。なぜならば、今その話を聞いたからだ」少女はまた小さく頷く。「よくぞ今まで独りで生きてきた」真神は体を伏せる。「話して泣いて疲れただろう。私に体を預けて横になるといい」「さっきも言ったけど神様に体を預けるだなんて、恐れ多くてできるわけないわ」鼻声だが少しだけ少女が笑った。「そんな事気にすることはない」先ほどもこんなやりとりをしたかなと真神は思いながら、尻尾をくるりと翻し、少女を自分にもたれさせる。真神は少女の温もりを脇腹に感じ、少女は真神の温もりを背中に感じている。「今日は見事な満月だと思わないか?」少女は顔をあげ真上に浮かぶ満月を見上げる。真っ白でまん丸の月が少女と真神を優しく照らしている。「本当だ」ボソリと少女が呟く。「今宵そなたが話したことは、私と月だけが知っている。それは中々に良い事だと思わんか?」少女は初めは真神が何の話をしているのかがよく分からなかったようで、首を傾げていたが、一瞬目を丸くした後、緩やかに口角を上げた。「私はもう独りじゃないと思ってもいいのかな?」少女の頬からゆっくりと涙が零れる。月の光が反射し目から宝石が流れた様に見えた。真神は何も言わず、尻尾で少女の髪をそっと梳る。少女は真神の脇腹に顔を突っ伏し、静かに涙を流す。それが悲しみや辛さではなく、安堵と喜びの涙だったということは満月と真神だけが知っていた。

それから、少女はよく真神の元を訪れる様になった。雨の日に出会った広葉樹の近くまで来ると、いつも決まって「オオクチノマカミ様」と大きく呼びかける声を響かせる。その呼び声を聞いた真神は広葉樹の枝からフワリと飛び立ち、滑る様に少女の元に向かう。「いつもありがとう」そう言いながら少女は真神の背に跨り、幾時かの空の散歩へ繰り出す。太陽を正面に進めば、少女は眩しい暑いと騒ぎ出し、月の美しい夜には何も言わず、その光景を目に焼き付けようと押し黙っている。また、そよ風が少女の首元をフワリと吹き抜ければ気持ちよさそうに目を瞑り、その体に自然を取り込む事で、日々の苦しみを浄化している様に見えた。

しかし、少女の体が徐々に軽く、細くなっていることに真神は気付いてはいる。ただ、何も言うことはなかった。細い腕に繋がる指はさらに細く、瞳は以前より落ち窪んだ所から世界を見ている。その痛々しい姿に真神ができることはない。ただ少女が満足するまで。その日真神の所に来てよかったと思えるように。今日も真神と少女の空宙の散策は続いた。

ある日のことだった。満月の夜にいつも通り真神が広葉樹の枝で休んでいると、向こうの方から少女がおぼつかない足取りでこちらに向かってくるのが見えた。真神は急いで体を起こし少女の元へと空中を滑る。「どうしたんだ?」真神が聞くと少し虚な目をしたまま「流行病でね。みんながどんどん死んでいくんだ。みんな薄くなっている。もう何がなんだかよくわからないよ。村の人は私のせいだ、私の呪いだと言って石を投げるの。私も病に冒されているというのにね。よほど何かのせいにしないと自分達を保てないんだわ」風が吹けば飛んでいってしまうのではないかと思うほどに弱々しい。真神は少女を背に乗せ広葉樹に戻ると、そこにゆっくりと横たわらせる。元々白かった肌が今では青白くなっていて、呼吸も消え入りそうなほどだった。「何か食うものをとってくるか?水は飲めるか?」少女は薄っすらと目を開け弱々しく口角を上げる。薄物から覗く首は細く、少し乱れた胸元からはクッキリと鎖骨が浮かんでいた。「もう何もいらないよ。私はもう多分ダメだから」石でもぶつけられたのだろう。口元には赤く血が滲んでいた。

なぜこれほどまでにこの娘が苦しまなければいけないんだ。真神がまだ人間を襲っていた時に持っていたドス黒い心が顔を覗き始める。怒りに牙は剥き出しになり、金色の瞳が無慈悲に冷たく光る。これほどまで人間に気持ちを動かされたことがあっただろうか。涙を流し続けながら必死に生きる憐れな娘の強さを知り、そんな人間に石を投げる厚顔無恥な人間への怒り。これまで感じた事のない感情に真神は一つ遠吠えをした。

「悲しい声だよマカミ様」話すことも辛いであろう少女は苦笑いを浮かべている。「なぜそなたがこの様に苦しまねばならんのだ!艱難辛苦に耐えながら、これからいつまで続くやも知れぬ我が身の運命を呪いながらも生きているというのに!そなたの姿形が儚くとも、心は誰よりも温かい!そんなそなたになんたる仕打ちか!人間というのは手を取り助け合って生きていく生き物ではなかったのか!」真神が悔しそうに言葉を放つ。「マカミ様は人間をよく知らないんだよ。ほら、これまであまり人間に関わってこなかったでしょう?みんなね、自分と違うとか、理解できないものが怖いんだよ。だからみんな私を怖がる。自分に向けられた視線や、少しだけ交わした言葉の裏側に、自分が近く死んでしまうのかも知れないと思う様になるんだ。そう。人間は弱いんだよ。だから怒らないで?そして許してあげて?」少女はゆっくりとそう話す。真神は思う。自らに石を投げた人間を許せと?自らの幸福や安寧ではなく、他人の波打つ心を受け入れろと?なんといじらしい話なのだろうか。痛々しいほどに優しく強い少女にかけられる言葉を、真神は持ち合わせていなかった。

少女の呼吸が弱くなっていく。真神は人間の生死についてはよく分からないが、それでも少女の命の終わりがすぐそこまできていることは理解できた。「そなた。名は何という?」少女は弱々しいが笑顔を浮かべた。「つくよ、月に詠むで、月詠だよ。でも…何でいまさら名前なの?」月詠はキョトンとして不思議そうに真神を見つめる。「私がそなたの事を知りたいと思ったからだ」ぶっきらぼうな物言いに思わず月詠はハハハと笑い声を上げた。「ありがとう。きっと私のこと、忘れないでね」月詠がいなくなる。「ああ。月詠の様な優しく強い人間がいた事を私は絶対に忘れない」それを聞くと月詠の瞳から光が尽きた。月詠と真神の目から、涙が一筋ゆっくりとこぼれ落ちた。

真神は今、夜空を歩いている。背にはまだ温もりの残る月詠がいた。虚ろに開いていた瞼を舌でそっと閉じると月詠は薄っすらと笑っている様に見えた。「なぁ月詠、今日はどこまでいこうか?なに。時間は沢山ある。これから月詠が何に生まれ変わって、どうやって生きていきたいのかを話すのはどうだ?もちろんその話は月詠と私と、満月の3人だけの秘密だ」月に向かって真神は歩く。目の前には月が大きく広がっている。「見ろ月詠。今夜の月はまた格別に美しいぞ」背に負った月詠は何も言わない。それでも真神は、月詠に沢山の事を問いかけながら、夜空を駆けた。

月詠よ。閉じた瞳で感じるが良い。そなたが生きた世界はこれほどまでに美しいのだ。私は月詠に出会えて本当に良かった。苦しかっただろう。しかし私という狼に月詠は幸せと温もりをくれた。月詠の生まれた意味と、生きた意味は私がこの身で受け取った。月詠よ。胸を張れ。そして、生まれ変わったらまた会おう。金色の瞳が、銀色に輝く満月に向かっていく。

「また会いましょう」

月詠の声が聞こえたのかと思い、真神は驚き振り返るが、そこには物言わぬ月詠が眠っているだけだった。

その日、近くの村の少年が満月の方を指差していた。その先には、夜空を駆ける狼と、それに乗る少女の様な影が真っ直ぐ月に向かっていく姿があった。そして狼の遠吠えが一度だけ、大きく鳴り響いたのだった。

おわり
©︎yasu2023


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