見出し画像

【番外☕】亡くなっていく人は膨大なエネルギーを置いていく?

私の知人に「日本看取り士協会」の認定を受けた看取り士の女性がいる。彼を亡くしてから、SNS上で知人を通してふっと出会った。出会ったというより、彼女の発した言葉に私が感電してしまったのだ。

それは私の知人である、バレエダンサーでジュエリーデザイナーをしている大瀧冬佳さんが昨年の年明けに行った9人との対談の中で、そのスピーカーの一人であった看取り士の彼女が語った言葉であった。

「亡くなっていく人はみんな、その場に膨大なエネルギーを置いていくんだよね。だけど、それをちゃんと受け取れる人はほんのわずかなの。」

それに対し、若くしてたくさんの身近な人と死に別れた経験を持つ冬佳さんも、
「本当にそうですよねー。」
と、当たり前のことのように受け応えたうえに、東京ドーム〇杯分の水の持つエネルギーと同じだと言われているだとか、具体的なエネルギーの大きさの話にまで及んでいた。

え、膨大なエネルギーを置いていく??
ちゃんと受け取る、って何??
たくさんの疑問符は、そのときの私にとって、とてもそのままにしておけるものではなかった。彼と死に別れてからやっと6ヶ月が過ぎた当時の私は、日常を見失い、茫然と暗黒の中に暮らしていたのだ。

彼女のお住まいは隣県だったので、私は連絡を取って中間地点で会ってもらった。私が抱いた疑問点を含めて、看取り士としての彼女のお話に興味を持ったから、私の住む町の小さなコミュニティ・カフェ(Imakokoカフェ)を会場に彼女のお話会を企画したいと考えたのだ。私のように、大切な人を亡くした経験を持つ人は実はたくさんいるし、誰もがいつ、突然にそういう日を迎えてもおかしくはないので、看取り士のお話は絶対に需要があると感じた。

看取り士の知名度を上げ、看取り士という仕事の重要性を多くの人に知らせたいと願う彼女は、突然の私からのオファーにも快く惜しみなくいろいろな話をしてくれた。彼女にもやはり、看取り士になることを決意させた看取り体験があった。冒頭の言葉も、そのときの体験から彼女が体得し、確信した真実のようだった。ただ、その感覚は体験した者にしか理解しえないものなのかもしれない。少なくとも私には、彼女に説明をしてもらっても、「ああ、それね!」とはならなかった。やはり「看取り」と言っても、当然ながら亡くなる人との関係性も違えば、一つ一つ違う体験なのだ。

彼女の看取りは確かに素晴らしい体験だけれど、お別れの仕方に優劣をつけたくはないなあ。(もちろん、彼女は優劣をつけるような見方をしない。)

Imakokoカフェでのお話会は、まだ実現していない。ほんとうは早速に日程を決めて開催しようと、その打ち合わせを兼ねた彼女とのお茶だったのだけど、直後に引っ越しと新生活と3人の息子それぞれの進学を控えていた私にはそれは元から無謀なことで、その後の私は著しく体調を崩して臥せってしまい、お話会はすっかり流れてしまった。

彼はあっちに行くときに、膨大なエネルギーを置いて行ったのかな?
私はそれをちゃんと受け取れたのかな? ぴんと来ていないということは、受け取れなかったのかな?
そしたら、そのエネルギーはどこへ行くのかな?

彼女との一瞬の接触は、結局その問いを宿題のように私に残した。
人に答えを聞くより、自分で感じるしかないのだな。


このところ、感じていることがある。
私が彼との思い出のノンフィクションを書かずにいられないのはなぜか。
そもそも最初から疑問も迷いもなく、「書かない」という選択肢がないかのように手をつけたのはなぜか。
そして、たった1年2ヶ月の出来事がはてしない長編になりそうなのに、根気やモチベーションがちっとも枯渇しそうにないのはなぜなのだろうか。
私自身にこんなエネルギーがあるはずがない。

これが、彼が置いていった「膨大な」エネルギーなのだろうか?

なんてことを、昨日の【番外】記事への、三羽烏さんからのコメント:
≪たった一人のためにこれだけのことが書けるなんて愛の深さと喪ったものの大きさが偲ばれます≫
に対して、
≪私も、つくづく、そう思います😆
 われながらすごいエネルギーやなぁ、って。。≫
とお返事させていただいたことで思い出し、思い至りました。
このエネルギー、案外、彼が置いていったものかもしれませんよ?

彼女に出会ったとき、私はもう、人生で一番大切な人を亡くしたから、この先はがっつり「死」と向き合う人生でもいいかもなぁ、と、「看取り士」の資格や「死」というもの自体に強烈に惹きつけられたのでした。
「死」への探求は続く。

※ヘッダー画像はにゃむさんの作品を使わせていただきました。
 にゃむさんのnoteも「看取り」がテーマの一つとなっているみたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?