【知られざるアーティストの記憶】第11話 視線のぶつかり合う距離で
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第2章 入院2クール目と3クール目の間
第11話 入院2クール目と3クール目の間 その5.視線のぶつかり合う距離で
2021年6月5日、彼は玄関の前で掃き掃除をしていた。マリの姿を認めたその目は好意的。柔らかく微笑んで
「この間はありがとうね。」
と言った。おそらく6月2日の朝に屋根の上の彼に手渡した手紙のことを言っているらしかったが、内容については特になかった。
彼は突然暗い表情をして、家にあった10年前の医学書で白血病についての記述を読んだことを話した。自身の余命について、数日前に話した時よりはるかに悲観的な見方に変わっていた。病気の話をするときのワダさんは、いつもとても老けて見えた。
「前回の入院では本を読んで過ごしていたけど、もう長く生きられないみたいだから、考え方を変えなくてはならない。死にゆく人と同じように、もう何を読んでも観てもおもしろく感じられないんだよ。」
寛解しても、もしまた再発すると、その時は心臓がもう治療に耐えられないだろうと主治医から言われているらしかった。それにしても、悲観的な未来をこうも頑なに決めつけている目の前の彼を、マリはにわかに理解できずに持て余した。再発しないほうの可能性を見てほしかったが、そのために何が自分にできるのかがわからなかった。
彼は、先日の会話からマリの関心が高いと思ったらしい映画の話題や、マリの父のことをマリに質問するなど、自ら話題を切り替えた。先日は自分ばかりがしゃべりすぎてしまったと感じていたのだろうか。マリは彼に関心を向けられていることに、くすぐったい歓びを感じた。この話題に変えてからの彼は、明るくて若々しい表情に変わった。マリは彼のこのイタズラっぽい笑顔がたまらなく好きだった。
マリからの病院への送迎の申し出を、彼は頑なに断った。
「だってあなたには家族がいるでしょう?家族を大切にしてください。旦那さんも、いるんでしょう?そんなことはしないほうがいいですよ。バスで行かれるから。」
バスで病院に行くと、乗り継いで片道1000円以上もかかる、と彼がぼやくから車での送迎を申し出たのに、彼はそう言うのだった。さらに彼は付け加えた。
「私はろくな人生歩んできていないんだから、向こうで揉め事ばっか起こしてきたんだから、関わり合いにならないほうがいいですよ。」
向こう、というのは、彼の両親の出身地である彼にとっての「田舎」のことで、彼はその地で30代の頃に親戚たちを敵に回して争い、最終的には自分の夢を潰されてしまったという苦い過去を、先日マリに話していた。それにしても、突然そんなことを理由に突き放すのか。
「それに、親がちゃんと自立して生きている姿を見せないと、子どもは育たないですよ。」
最後のこの言葉は、マリにぐさりと突き刺さった。先ほどの
「家族を大切にしてください。」
には、
「家族のことは大切にしているし。」
と口答えをしてみたマリだったが、この言葉には口をつぐまされた。彼の人生哲学に基づく子育て観がマリの姿勢に対して突き付けられたようで、これがあの手紙に対する彼からの返事のようにも感じられた。ふらふらと彼にもたれかかっていこうとする自分の姿をすっかり彼に見透かされていたことに、恥ずかしさと同時に頭を殴られたような痛みを感じた。そんなマリにぴくりとも動じずに、ほほえみを湛えながら距離を保つ彼はなんと気高いのだろうか。
その日の夕方、マリは三男と公園でサッカーボールを蹴り込んだ帰り道に、彼の家の前で彼とばったり会った。彼はほとんど何もしゃべらずに、当時4歳の三男とマリの顔をニコニコしながら嬉しそうに見比べた。
「かわいいっしょ?」
とマリが言うと、
「うん。」
とだけ言って頷いていた。
「あの人、うんしか言えないのかよ。」
かわいい、と言われた三男は顔に似合わない憎まれ口をたたいた。
昼間の話があったから、マリは自分の母親としての姿を彼に見てもらえてよかったと思った。それにしても、彼があまりにも幸せそうな顔でマリたちを見つめるのを見て、マリもとてつもない幸せを感じた。視線のぶつかり合う距離だからこそ、伝え合える気持ちもあるのかもしれない。やわらかくほほえみかけてくれる彼に、
(いつまでも、そこにいてください。)
そう、心から思った。そのことは後日、手紙にしたためた。
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