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【知られざるアーティストの記憶】第24話 髪を長くしていた彼のソウルミュージックは

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前回

第4章 入院3クール目と4クール目の間
 第24話 髪を長くしていた彼のソウルミュージックは

仕事をしていないマリにも、土日は家族との予定があったり、平日にも様々な予定が入っていたので、彼の入院日までの間は土日を挟んで7月19日月曜日の午前中くらいしか彼に会いに来られる日がなさそうだった。
「また話しましょう。」
と彼も言ってくれるし、マリも入院前に彼に会いたかったので、
「19日月曜日の午前中に来てもいいですか?」
と訊いた。気功に行くときに運がよければ出くわす、というだけの関係を脱したかったのだ。スマホを持たない彼とは、
≪今から行くね≫
などという気楽な文字を送り合うこともできず、かと言ってわざわざ黒電話を鳴らすほどの距離でもなかったから、マリは次に会う日の約束を試みた。それに対して彼は、
「私が居るときに、いつでも来てください。」
と言った。日程の約束はできないらしかったが、彼は今のところ、マリが突然訪ねても嫌な顔ひとつせずに対応してくれた。

まもなく訪れる1ヶ月間が、マリにはこれまでで一番きつく感じられた。ひるがえって彼は、とてもゆったりと構え、運命に身を委ねているようにも見えた。病気に対する覚悟、または良い意味での諦めの境地に達していたのだろうか。以前の、
「やりたいことはあったのに……。」
という言葉とは違い、この日は
「私が描きたいものの構想はあって、実はもう下描きはしてあるんだよ。」
と、あのイタズラ顔で笑ってみせた。マリはいつも降参してしまうこの顔を近くで見られるだけで、他には何もいらないほどの幸福を感じた。

機嫌がよかったのか彼は、彼の家からマリの家までの距離の3分の1あたりのところまで見送りに来て、その場所で二人は立ち話をした。
「私たちが引っ越すことにしている理由の一つとして、家が斜めに傾いているんですよ。ビー玉を床に置けば転がっていくぐらい。」
マリが笑いながら言うと、彼は驚いた様子で
「えっ、うちも傾いているんだよ。それから向かいのコンビニだった家もそうだし、この一帯は道路に埋まっている水道管の工事がまずかったのか、どの家も傾いているんだよ。それで、Aさんは家賃を下げなかったの?」
「引っ越してきてすぐに気がついて、Aさんに言ったらすぐに調べてくれて、もし引っ越したければ引っ越し代を出すとは言ってくれたんですが、引っ越す気もなかったのでそのまま7年も住んじゃったんですよ。」

マリの家の大家であるAさんは、マリの家の向かいの大きな家に住んでいた。何かあればすぐに親切に対応してくれて、それ以外は何も干渉もしなければ必要以上の付き合いもしない、とても理想的な大家さんであった。子どもが登って壊してしまった給湯器のホースを、
「どうか叱らないでやってください。」
と大目に見て無償で直してくれたり、マリの家の2台目の駐車場を無償で貸してくれていたりと、本来ならばこちらが毎月駐車場代を払わなければならないくらいだったので、家賃をまけさせようという気持ちはさらさらなかった。見た目の年頃は彼と同じくらいに見えたが、彼が言うにはAさんは婿養子だということで、ごく近所であっても彼とはほとんど交流はなさそうであった。一方、彼の家は両親が建てた持ち家だったが、土地だけはYさんという大家さんに借りていたので、毎月地代を支払っていた。Yさんの家は、Aさんの家とアパートを隔てた隣の、やはり大きな家だった。

Aさんの噂話にも早々に飽きた彼は、いつの間にかまた内外の作家たちの話をし始めた。
「日本が大好きなイギリス人の作家がいて、日本人の奥さんをもらって日本に移り住んで、面白くもねえ詩を書いていたけど……。」
というような話もこの時にしていたが、いったい誰のことを話していたのだろう。相変わらず彼の話は急展開でどんどん移り変わるので、マリは必死に耳を傾けるのだが、何度も置いてきぼりを食らった。マリの出身地が高知県だったので、高知県出身の「エロものばかり描いていた漫画家」のことも話した。
「エロものを描きゃ売れる時代だったんだよ。『チャタレイ夫人の恋人』なんかが流行った時代だから。でも私はそういうものを描きたいとはいっさい思わなかった。」

それから彼は、マリにとって馴染みのある人たちの名前を口にした。
「宗次郎って、いるだろ?オカリナの。それからパーカッションの喜太郎と。彼らは私と同世代のミュージシャンなんだよ。なんとなく、わかるだろ?共通点が。」
そう言って彼は、また茶目っ気のある笑顔を向けた。
「ヒッピーだよ。」

「わかるだろ?」って言われても、答えを聞くまでは何もぴんとこなかったが、言われてみると、「彼はヒッピーだったのか!」と、抗がん剤で失う前の肩まで伸ばした彼の長い髪の毛がマリの中で繋がった。

一匹狼を貫き通した彼は、自分のことをヒッピーであるとは決して言わなかったが、思想的には彼らに親和性を感じて、影響も受けながら共に生きてきた、というふうにマリは解釈した。彼の思想を表現していた長い髪の毛を失ってしまったことは、彼にとってつらかったのではないだろうかと気遣うと、
「こうなっちゃったら、こうなっちゃっただ。」
と意外にさわやかに、頭の後ろで腕を組んで笑ってみせた。彼は不要な執着など持たず、ケセラセラなのだなあ、とマリは安心した。この頃の彼の頭髪は、細い猫っ毛が逆立って、キヨシローか星の王子さまを思わせるようなスタイルで、これはこれで様になっていた。

それにしても、とマリは思った。彼の同世代ミュージシャンであり、ソウルミュージックであるという宗次郎と喜太郎。おそらく喜太郎よりは知られていないオカリナの宗次郎は、マリが子どもの頃に放映されていたNHKスペシャル「大黄河」のテーマを演奏して名を知られるようになった人だった。マリは子どもの頃に宗次郎に憧れて、小学校6年生のときの誕生日プレゼントにオカリナを買ってもらったのだった。24年を隔てて生きる彼とマリの心が、同じ音色に共振していたという事実に、マリは静かに驚いた。

つづく

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