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【知られざるアーティストの記憶】第04話 林檎とともに砕け散った恋心と、時は流れ姿を消した彼

▽全編収録マガジン

第04話 林檎とともに砕け散った恋心と、時は流れ姿を消した彼

その時、彼はマリの心のカーテンを開けてこちら側に入ってきて、二人は友達になった……。

マリは居ても立っても居られなくなった。翌日、意を決し、家にあった林檎を彼が恐縮しないように2つだけ袋に詰めて、彼の家へ持って行った。そして、
「6年半前にあそこの家に引っ越してきたスナガです。ずっとご挨拶もしないで……。」
と言いながら差し出した。彼の顔には前日のような笑顔はなかった。そればかりか、玄関の場所がわからず、呼んでも出て来てくれなかったため仕方なく庭のほうから窓の中にいる彼に呼び掛けたマリに対して、彼は驚きと戸惑いと怒りの混ざったスズメバチのような顔を向けたのだった。

マリは体中から血の気が引くのを感じた。いい歳をして自分のしたことが恥ずかしくなった。

彼は数年前に町会を抜けたこと、建築基準に引っかかって玄関を取られてしまったこと、今は体が弱くなり、できることをして過ごしていることなどを、終始目を伏せながらか細い声で語った。
「いろいろ事情というものがあるんです。」
と彼は繰り返した。

その時マリが間近に見た彼の姿は、マリがあこがれ続けたあの人とほんとうに同一人物なのだろうかと、マリを大いに戸惑わせた。話し方はいかにも神経質そうで、話の内容にも脈絡がなかった。もしかするとこの人は、精神的に少し異常をきたしているのかもしれない、とさえマリは感じた。伏せられた彼の瞳には、地域社会への不信と自分の人生への深い諦めが黒く影を落とすばかりで、そこにはマリが心を通わせる隙などどこにも見当たらなかった。

踏み込んではならない領域に踏み込んでしまった、とマリは思った。心のカーテンは無残に閉められ、マリの恋心はへなへなと行き場を失った。

林檎の一件以来、マリは彼に対し、会ったときに軽く挨拶をするだけに留めることにした。気功に出かける朝とは違う服を着て車で出かけるマリにも、彼はよく気がついて、アイコンタクトや会釈をしてくれた。たまに機嫌がいいのか笑顔を向けてくれる時には、押し込めておいたマリの恋心はひょこひょこと蓋を開け、純粋な彼の瞳に会いに行くのだった。彼の笑顔は、目が合っている時間を永遠にし、二人だけの空間に変えてしまうだけの力を持っていた。

やがて銀杏の舞う季節、箒を持って家の前に現れた彼はいつにも増してはりきって落ち葉を掃き集め、ビニール袋をいくつも満杯にしていた。その姿は嬉々としているようにさえ見え、マリには不思議に映った。身軽そうに屋根に上って落ち葉を掃き落としている姿は、まるで小人さんのようであった。心配していたよりは体力もありそうな姿に、マリは少し安心した。

日に日に寒さが厳しくなったある朝、公園での気功を終えて家路についたマリは橋の上で彼とすれ違った。
「歩いているなんて珍しいですね。」
と声をかけると、
「私だって歩くよ。」
と彼はイタズラっぽい笑顔で返してくれた。この短い会話は林檎のとき以来だった。この時に見せた、マリが最も愛する彼のややはにかんだ笑顔は、マリの心を温めるとともに脳裏にそのシーンを焼き付けた。

本格的な寒さが来るとマリは早朝の気功には出かけなくなり、たまに車から見かけるだけになった彼の顔からは笑顔が消えた。そして年をまたぐと彼を見かける頻度は次第に減っていき、ついにぱたりと見かけなくなってしまった。

桜の季節が来ても、降り積もる花びらをはりきって掃き集める彼の姿はやはり現れなかった。彼の家の庭は雑草に覆われた。

「あの人はもしかして、死んでしまったんだろうか?」
最悪の事態までが脳裏をかすめても、彼の安否を尋ねる相手をマリは持たなかった。相変わらず彼の姿を探して注がれる無数のマリの視線が、彼の家の周りに降り積もってうっすらと色づくベールを成しているようだった。

(1545文字)

▽第05話


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