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【知られざるアーティストの記憶】第03話 恋はいつでも中学生女子のように

▽全編収録マガジン

第03話 恋はいつでも中学生女子のように

出くわす度に印象の強さを増してくる彼のことが、マリは次第に気になり始めた。いつ見ても彼は、脇目もふらずに家の周りを掃いたり、窓を開けてサッシを掃除したり、窓の外に向かってケットをはたいていたりしていた。機敏な動きはまるで働き蟻のようであった。彼の庭木は常にきれいに整えられ、雑草もきれいに抜かれていた。その様子から、きっと彼の家の中も同様に、無駄なものがなく整然と整えられていることが窺えた。そんな彼の暮らしぶりを、マリは好ましく眺めていた。彼の家とは正反対である自宅を整えもせずに、毎朝自分自身を整えに出かける自分に、マリはちくりと後ろめたさを感じた。

ある時、マリが彼の家の角を曲がった途端、彼と鉢合わせになり、驚いて「あっ」っと声をあげたあと、それを隠すように
「おはようございます。」
と言うと、彼のほうも間髪いれずに
「おはようございます。」
と返してきた。
(これだけ近所で互いに顔を見知っているのだから、挨拶くらい交わしたって不自然ではないはず。)
と、マリは自分に言い聞かせた。

それ以来、彼とマリとは、会えば挨拶だけ交わす仲となった。すると、彼のマリへの表情は明らかに和らいだ。

下世話な話であるが、彼の容姿はマリの好みのど真ん中であった。子どもの頃から、「この手の顔の人が近くにいたら必ず好きになってしまうやん」という顔そのものだったのだ。それは、目、鼻、口それぞれのパーツは小さく、整っていて上品であること、つぶらな瞳、童顔、そして、無駄のない小降りな仕草というのも条件に含まれていた。要するにマリは、彼の容姿に無抵抗に惹かれたのである。彼の年齢はわからなかったが、マリより10歳年上の夫よりもさらに5つ6つ上くらいだろうか、とマリは思った。

マリはこの、名前もわからないずいぶん年上の男性に恋をしていることを、あっさりと自認した。来る日も来る日も、気功に出かけるマリの足は浮足立っていた。気功の行き帰りに彼の家の前を通るときはもちろん、気功をしている最中にさえ何度も彼の家のほうに目をやった。今日は姿を見られるか、ひょっとして言葉を交わせるか、
(あっ、いたー!)
などと、まるで中学生女子のような胸中の騒ぎに、四十を過ぎても恋のしかたには進歩がないものかとマリは苦笑した。進歩がないばかりではなく、むしろその感覚は昔に感じていたよりも余計に鮮烈に感じられ、楽しく幸せであると同時に、マリを苦しめもした。恋という感情の強烈さは、当然ながらマリの家族との日常を一瞬にしてかっさらい、別の色に染め上げた。

相手にも、自分の家族にも迷惑をかけない。自分でこの感情に一切の責任を持つのであれば、彼を好きでいてもかまわないだろうとマリは思った。自分はもっと大人な行動をとれるはずだと信じていたのだ。そして、一つの願いを持つことを自分に許可した。それは、彼と話をしてみたい、世間話ができるくらいの間柄になりたい、公園のベンチに座って語らう公園デートをしてみたい、という願いだった。

ある朝、気功に出かけようと玄関を出たマリは、二階の窓に彼の姿を認めた。それは、マリが公園での気功を始めて約半年が過ぎた2020年10月の初めのことであった。彼はケットをはたく手を止めてこっちを見ていた。挨拶の届く距離になるまで一旦外していた視線を再び彼に戻すと、彼はマリから一度もそらさなかったらしい温かな眼差しでそれを出迎えた。口元には初めてマリに向けられた微笑みが湛えられていた。

(1425文字)

▽第04話


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