帰国子女と英語学習の虚構

はじめに


はじめまして。この記事では帰国子女である筆者が、世俗的な帰国子女のイメージと実情のズレや、グローバリズムが進む中叫ばれる外国語学習の強化がに潜む虚構について書こうと思います。しがない大学生が書いている駄文ですので、専門的な知見からのデータには期待しないでください。しかし、それっぽい理屈を並べたありふれた机上論よりも、帰国子女や外国語学習を取り巻く環境、現実を正確に理解している、という自信はあります。

外国語学習は、その情報コストの高さから調べれば色々な情報が出てきます。はっきり言わせて貰うと、どれもあまり本質を捉えきれていません。割と攻略法が決まっている入試英語ならまだしも、本格的な英語運用においては、ありもしない事をさも現実かのようにそれっぽいデータや実績を並べている人が多すぎる。帰国して数年が立ちますが、今でもあの時日本に残る選択をしていれば…と考えない日はありません。この記事が、どこかの誰かの参考になれば幸いです。

筆者のスペック

中堅上位程度の国公立大学在学中、英検準一級(小学6年次に取得) 、TOEIC950点(対策期間一ヶ月、一年程前に取得)、2009年5月〜2013年3月までイギリス英語圏の何処かの現地校通い。

※特定防止の為ここまでしか書けません。申し訳ありません。

帰国子女の「分岐点」

突然ですが、皆さんは帰国子女にどんなイメージがありますか?英語が出来る、少し変わっている、意外と普通の子が多い等々、色々あるでしょう。
これらの属性を決める分岐点は、通っていた学校と、その時期です。海外に行った子供が通う学校には主に二つの選択肢があります。一つは日本人学校やインターナショナル・スクール、もう一つが現地校です。そして、多くの場合前者が選ばれます。何故なら行けるなら、日本人を教える経験に富んだ教育機関で学んだ方がいいし、それが親の会社からも推奨される為です。禄に日本人が行った事のない現地校に勝手に入れられるとどんなトラブルが起こるか分からないので。
では何故現地校に行くケースが出てくるのか?答えは簡単で、単純に遠くて行けないからです。多くの場合前者の括りの学校は先進国や行った国の首都にしかありません。親の転勤場所がそれらの地域から外れると物理的に行けなくなる訳です。要するに帰国子女やその両親達には、大抵学校選択の自由はない訳です。
この半強制的な振り分けが、帰国子女が将来どんな子になるかを左右します。以下では、その典型的なパターンをいくつか紹介します。

英語が出来ない帰国子女

皆さんも聞いたことがないですか?海外に行ったのに英語があまりできない帰国子女。海外に行った事がない人はいったい何故なのか疑問に思うでしょう。その答えは単純で、日本人学校やインターナショナル・スクールに通っていて英語を定着させる機会がなかったのです。これらの学校は上述の通り、日本人の指導に慣れています。それ故結構上手に、その子が学校に溶け込めるように配慮してくれるのです。具体的には日本人同士を一緒のグループにしてくれたり、英語能力をマニュアルに沿って鍛えてくれたりします。が、こうした配慮は子供達にとって救いとはなりますが、結果として演習不足に陥りがちです。
マニュアル通りに、同じ日本人や外国人と英会話をする、これって別に日本でも出来ますし、結果もあまり変わりません。だってやってる事ALTの先生方の授業と同じですからね。交わされるやり取りはある程度想定されているので、マニュアルに沿った事しか子供達は覚えられない。これでは日本よりある程度進んだことをやっても、中学の予習位にしかならないですし、使いこなす、という次元には到達できません。
また、前述した通り日本人学校やインターナショナル・スクールがあるのは発展した地域です。アマゾンで頼めば何でも届きますし、外国人への対応も比較的慣れている人が多いので、学校の外での演習も望めない。
暮らしやすいでしょうが、子供達が英語学習をするのには向いていないのです。
 

英語が「出来る」帰国子女


では、英語が「出来る」帰国子女はどう生まれるのか?それは、強制的に現地校に放り込まれる事によることが大半です。私もこれに該当します。このような環境に置かれた子供達は、いきなり、流暢な英語を扱う外国人ばかりが存在する環境へ放り込まれます。勿論、同じような境遇に置かれた日本人も近くにいる事にはいます。が、毎日日本人と話し続けているだけでは乗り越えられない、日々の授業やグループワークなどの試練が沢山あるのです。
子供たちはそれらの試練に自らが形成した独自の英語で立ち向かいます。独自の英語?何を言ってるんだと思うかもしれません。英語は英語だろう、と。しかし、英語が「出来る」帰国子女の「英語」はこうとしか説明できません。聞いたことがないですか?英文法なんてものをやっているのは日本だけだって。これは半分正解です。正確には、海外の方々は英文法にも触れていますが、幼少期からの度重なる演習によりその応用能力がとてつもなく高く、例え間違って習得してしまっても日々の生活の中で自然に修正できるのです。そして、これは日本人の子供には出来ません。なぜなら、彼らは海外の方々の英語を模倣することで英語を習得するし、それを修正する人もいないからです。日本人の子供達は、幼少期を日本で過ごしたうえで海外の学校に入っていきます。それ故英語の演習は良くて近所の英会話教室レベル止まりです。そんな貧弱な状態で現地校に組み込まれると、配布される教科書すら、十分には理解できません。現地で相応の学習段階を踏んだ子供達向けの内容ですからね。
そこで、子供達は、自分の知っている精一杯の語彙で級友達に話しかけ、その返答を徐々に記憶していきます。その記憶した内容を、こう来たらこう返す的なノリで用いていくうちに、段々と独自色を帯びた英語が本人の中で出来上がり、「話せるように」なる、こういう仕組みです。日々のやり取りを記憶し、それを自己流にアレンジする事で「英語」を習得する。だから、「独自」の域を出ない。だって帰国子女達の親は日本人だからまともな修正など出来ないし、周りの子供達や先生方には現地校が故に期待できない。何より本人達も学年が上がった所で英語は雰囲気で理解しているに過ぎないのだから。雰囲気の「英語」が上達したところで、学年が上がってより難度が上がった学習内容を理解する事が出来る筈もありません。
このように、現地校通いの子供達は演習量自体は確保出来ますし、やりとりの内容が想定されていない実践的な演習は出来ますが、その充実度がどうしても低くなります。彼らは新しい環境に溶け込むために、早く現地の方々に通じる英語を習得するしかなかった。その結果がこれです。曲がりなりにも本場で修得したものではあるので、純粋な日本人たちにはこの紛い物で大きな差を付けられますし、日本の英語技能資格には有効です。
が、そこに言語としての正しさは存在しません。出来る事は誤魔化しだけ。そして、英語が出来ない子供達、「出来る」子供達の両方に、帰国後には大きな二つの災難が降りかかります。

自己形成への悪影響

帰国子女達は、まともな幼少期など送れません。何故なら、どう頑張っても、現地の子供達にとって彼らは余所者だからです。子供達が、彼らの独自の「英語」を日常生活で支障のないレベルで使いこなすにはかなりの時間がかかります。その間は当然現地の子供達のグループの正当な構成員にはなれません。そして、やっと馴染めるようになっても、やはり話など合いません。何故か?どう頑張っても文化の壁は越えられない為、現地の流行に付いていけないのです。海外の人間模様は非常に多元的です。様々な人種、様々な国にルーツを持つ人々が同じ学校に集約される。そのような環境ではルーツごとに別の流行があることが殆ど。つまり、日本のように、同じ遊びが同世代で流行り、それを通じて友達を作る、ということが出来ない。これを言うと怒る人もいるかもしれませんが、日本は遊びの分野では断トツで恵まれている国の一つだと思います。他の国が遅れているというわけでなく、幅広い世代に親しまれるゲームやアニメ、漫画は海外ではなかなかありません。それらで幼少期の思い出を作ることは子供にとってはとてもいい経験です。これらを通して友達との接し方を学べますから。
こうした経験を出来ない帰国子女達は日本の環境に馴染むことに苦戦しがちです。皆さんは幼少期、友達との話題に苦しんだ事はありますか?あったとしてその原因はなんでしたか?大半の人が流行っている物を、家庭の方針で買えなかった事を思い浮かべるのではないでしょうか。子供が友達との共通の話題なんて考える訳がないんですよ。例えば今日の天気は?とか社会情勢は〜とか。子供たちの世界は大抵学校や部活のことや、趣味で完結します。それらにアクセス出来ないことは、自己形成に大きな悪影響を及ぼします。子供達の特権は、その無限の自由時間です。それを謳歌して、友人を遊んだり、アニメや漫画を見たり、初めての部活動に打ち込んでみたり、運動会や学芸会に励んでみたり...その全ての機会を一生奪われ、海外での思い出だけが残る訳です。想像してみてください。不完全な英語能力を得る代わりに膨大な時間を捨てる訳です。
また、学校行事や、部活動を通して苦手な子とや先輩、先生達と上手くやっていく経験を積めない事も大きな問題です。海外ではそのような文化はありません。やはり海外では個を大事にする文化が強いので、苦手な子とも上手くやっていく、という発想が薄いです。そのような環境で育った子供達が帰国した時にどうなるか?日本の和を大事にする環境に溶け込むのに大変苦労します。
帰国子女達は、どの学校に通っていても日本人同士で非常に仲が悪くなる、という事はあまりないです。数少ない同郷の友達ですから。同じ文化を共有していますし、話も合います。何より、思うようにいかない事が多い海外生活で苦楽を共にできる仲間です。
このような間柄では、時に個を犠牲にしても和を尊しとする精神を心で理解することは不可能と言わざるを得ません。

義務教育内容習得の困難さ

これも、非常に重要です。日本人学校では無い学校に通う子供達に当てはまります。考えれば分かることですが、日本と海外では教育カリキュラムが大きく異なります。授業は英語だし、やる内容も日本とは全く別物です。私の例だと、小学五年次に代数を使った文章問題、実験器具の名称暗記等をしていました。そして、日本の勉強は大抵親の会社を通して、日本の教材を取り寄せて補います。
これの何が問題か?義務教育の習得が必然的に子供達の自主学習のみに依拠する事になるため、子供たちが問題に躓いたり、疑問を抱いたとしても、正しい解決ができず、なあなあで済ませてしまう事が多くなってしまいます。親が解決すればいいのでは?と思う方、甘いです。子供達の親が勉強から離れて何年経つと思いますか?彼らにも日々の慣れない海外生活があります。子供につきっきりで勉強を教える訳にはいかないし、親も親で子供達を正しく導くことは困難でしょう。なぜなら両親達の子供時代とは教育内容は大きく異なりますから。このような事態を防ぐにはやはり学校でしっかり授業を受け、教科書を参照しながら問題演習を行うのが一番なのですが、そもそも海外では教科書すら、入手困難です。そして良質な教師の確保は言わずもがな、より困難です。(まあ良質な教師の確保は日本でも難しいと思っていますが…)
このような環境で勉強を続けた子供達はどうなるか?帰国してから、より高度な内容の授業を受けるので当然躓きますし、自分がどこが分からないのか分からない、という悪循環に陥りがちです。とりわけ、積み重ねの教科である算数、数学においては致命的な結果を生み出すでしょう。また、日本の教師で、このような帰国子女達の実態を把握している方々は非常に少ないです。だいたい普通の日本人と同じ教育をされ、必要なケアがなされない。住む地域とお金に恵まれていれば、そのような教師がいる学校に行けるかもしれませんが、少なくともどこにでもある国公立校ではまず巡り会えません。
もし帰国子女がこの記事を読んでいたら、私を反面教師に、手遅れになる前に数学だけでも復習を行いましょう。

例外となる青年達

しかし、上述したどれにも属さない帰国子女達もいます。それは、帰国子女枠を使うような、中学、高校の時期に海外の教育機関で学ぶ青年達です。彼らは上述の子供達と違い、自己形成や義務教育の習得に悪影響を受けていません。では、彼らなら実用的な英語習得ができるのでしょうか。
出来るわけがありません。上述した通り、英語が「出来る」子供達は、海外の子供達と同じような幼少期を経験できず、英語運用におけるミスを指摘してくれる他者もいない為、その模倣からの産物である紛い物の英語を習得します。青年期で海外へ渡航すると、より長い期間を経験していない状態で、それらを通過してきた海外の青年達と同じ授業を受ける事となります。当然英語力の前提が違う上、教育カリキュラムも別物で、英語で行われます。日本人が付いていける訳がないですね。
彼らは必然的により未完成な英語を身に着けることになります。そして、多くが帰国子女枠を使って日本の大学に入学する形で帰国するのです。

英語学習における虚構

ここまで書いて来たことで何が言いたいか?それは、どう頑張っても日本人は世界に通用する英語など身に着けられず、帰国子女にはデメリットの方が多い、ということです。読者の皆さんの中には反対したい方もいらっしゃるでしょう。皆さんの知人や、著名人、海外の有名大学に通う人等々、反例となりうる方々は沢山いるやもしれません。しかし、私はそうした方達が行っているのも、「独自」の英語の習得であると考えています。しかも、その方法は英語が「出来る」帰国子女達の模倣とは、また微妙に異なっている。彼らは実践的な英語を習得しようとして単純暗記を行ってしまっているのです。
恐らく、彼らは実践的な学問や議論、ビジネスの場で通用する英語を、という信念を持って学習を続けているのでしょう。その心意気は心から尊敬しますが、ぶっちゃけそうした場は、事前に使う定型表現を数十個覚え、それを場合に応じて使い分けるだけで乗り切れてしまいます。だってそうでしょう。皆さんも学問や議論をする際はそのテーマに関する意見や質問を事前に用意しますし、ビジネスのプレゼンテーションでは原稿を作りますよね。それを英語で事前に考え、言えるようにするだけの話です。海外で送る日常生活では、これはもっと顕著です。皆さんも日本語で普段通りの生活をする際、特段難しい表現はあまり使いませんよね。海外でもそれは同じなので、先ほどのケースより少ない定型表現を覚えるだけの話です。
上述した現地校に通っていた子供達と違うのは、子供達が日々を生き抜くために「独自の」英語を取得するのに対し、ここで触れているような人達は高い向上心を持って英語を学ぼうとしている点です。
彼らは心身が子供達に比べて成長しているので、より論理的に考えることが出来、色々な情報を分析し英語を学べます。が、それ故に海外の方々とより円滑な意思疎通が出来るようになると、それが英語力の成長によるものと錯覚してしまう。
演習量不足の状態で正しい表現だけを暗記してしまうと、自分で正しい会話や文章を考える練習が出来ず、成長の限界に陥ってしまいます。これに気づけても、演習量不足は永遠に埋まらないので差は広がるばかり。まさに、詰み状態なわけです。

まとめ

ここまで読んでいただきありがとうございました。より分かりやすく書ける部分は推敲を重ねればいくらでも出てくると思いますが、ここまで書くのに丸半日かかってしまい疲れたので、ここで一旦筆をおこうと思います。仮にご要望が多ければ追記・修正をおこなうかもしれません。質問はコメント欄までお願い致します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?