見出し画像

サルでもわかる!宗教と哲学の違い

[プロローグ]
こんにちは!

マリンこと神保慶明です。

今回はね「宗教と哲学の違い」
をやります

でも、安心してね

とっても簡単に伝えるから
全然難しくないよ

皆さんだって何となく
「哲学と宗教」は違うって感じてるけど
じゃあ一体何が?ってなると
何となくぼんやりしてないですか?

「解ってるようで解ってない!
解ってないようで解ってる!」

あ~もう哲学的なこと
言っちゃった(笑)

とにかく今回はそんな
何んとなく~の部分を
スッキリ、シンプルにさせて行くので
読んで下さいね!

もうね、
この話を読んでもらうだけで

気分もスッキリ晴れ渡り
考え方がガラリと変わっていくから

思いつくことから言うこと
行動まで変わっちゃって
本当の意味でドンドンと明るく幸せに
なりますよ!

皆さんは「宗教」って聞くと
どんな建物をイメージしますか?

やっぱり「神社仏閣」「教会」ですよね

仏教ってね「お釈迦様」が始めたのは
超有名ですよね

そこから色んな枝葉に分かれていって
最澄・空海・日蓮・親鸞って仏弟子が登場
していったんですよ

それに宗教で言えばクリスマスって聞くと
「イエス様」ですよね

宗教は他にも新興宗教とかホント
沢山あります

こんな感じで宗教ってさっきも言ったけど
「神社仏閣」「教会」なんかの建物があるけど
哲学には建物はないんです

哲学で有名なのは教科書に出てくるような
「カント」「ニーチェ」といった
哲学者の名前ぐらいじゃないですか?

何だか堅物で近寄りがたい
「学者さん」ってイメージですよね

なんとな~くだけど
「宗教と哲学の本質的な違い」って
形ある物とない物って気がして来たでしょ?

まぁまぁそれも一理ありなんだけど
もっと深いんですよ~

じゃあ、本格的に今から違いって
一体、何なのか?ってところを
ドンドン話して行きますね

最後までじっくり
読んでくれたらよ~くわかりますよ
しかも説明は超簡単シンプル!

はい!じゃあ、本題に入りますね

[哲学とは?]

哲学的に考えるって
どんなことだと思いますか?

哲学的なんて
気取って難しく聞こえるように
言ってるけど

実はね
私たちが普段からやっていることに
とっても似てるんですよ

どんなことかって言うと
「え!うそ?まじ?
そんなわけないじゃん!
だったらこう考えてみたら?」という風に
「疑って考える」ことです

今まで「当たり前」「常識」と
思われているようなことを
「そもそも、それは何だったの?」って
考えることから哲学ってスタートするんですね

例えば
「生きることはどういうこと?」
「人はどう生きるべき?」
「幸せとは何?」
とかいうテーマというか

「言葉」の意味を深堀していくんですよね

例えば「生きる」「幸せ」がその言葉
となるんだけど…

哲学って、こうしたテーマ・言葉だけじゃないんです

ありとあらゆる言葉を色々な角度から見て
その言葉に原理・本質を見つけ出そうと
物事を深く掘り下げ学んで
意味づけしていくっていう学問なんです

[哲学と宗教を比較する]

もう一つ、宗教って
一体なんだと思いますか?

哲学では、私たち人間が
言葉の意味を深く掘り下げて
発見するってことをやり続けます

だけど、宗教は最初から真理っていう
正しい道筋がハッキリしていますよね

宗教には
真理を悟って宗派を開いた人たちが
いるんですね

それがキリスト教ならイエス様
仏教ならお釈迦様
イスラム教ならマホメットになりますよね

哲学は何が真理かを深堀して答えを見つけては
また掘り下げるってことを繰り返しているだけですよね

だけど、宗教はもうちゃんと確立されている真理に
共感できる人がそれを信じるってことなんです

「哲学と宗教」ってホント真逆だよね

哲学だと、哲学者カントが思いを巡らせて
深~く考えたことが本になってますよね

宗教では、イエス様やお釈迦様の
教えが真理として聖書や仏典になっているんです

もう、本質的な違いに気づきましたか?
そう!

哲学は「完璧ではない私たち人間が中心」
だってことなんです

そこには「神様仏様はいない中での深堀した考えの世界」
ってことなんですね

だから「あらゆることの原理・本質は何かと見出そう
とすること」が目的になっているんですよ

まるで火山の煙のように上にモクモクあげるイメージ

逆に、宗教は
「神様や悟った人が中心の、神様仏様から発信される真理」なんです

そして「それを信じる者が実行する世界」なんですね

そもそも「私たち人間の精神的な苦しさから救い出す」を
目的としているっていう違いがありますよ

まるで、大空に燦然と輝く太陽から熱と光を
降り注ぎ、あらゆるものを活かしているイメージです

[哲学の問題点]

哲学はね、もう本当に昔からある学問で
数千年もたつ学問なんですけど

ただひたすら哲学は
「言葉」と「三段論法」から
成り立っているんです

たとえば
「形は何なのか?」
「様式とは何なのか?」
などの言葉の意味づけを探究しているだけなんですね

要するにそれだけ!
他には何にもないんです

ひたすら物事について深く考える遊びに終わってるんですね

だからそれ以上でもそれ以下でもないってことです

そんなことを続けていたらどうなると思います?

いつのまにか、実際に役立つことなんか考えなくなって
単なる言葉の説明を繰り返すだけになっちゃってるんですね

だから哲学者は考えに光を全く受けられなくなってしまうんですね

最後には心を閉じてしまって、何一つ認められなくなります

色々な良いメッセージを残したニーチェも
ついには自ら命を絶ちました

彼が哲学というものをよく表していると思います

[宗教の必要性]

宗教全てを良いとは勿論言いません

でも宗教は「神仏」を前提として認めています

つまり、哲学のように
「人間の視点から、神を含めたあらゆる言葉の意味を見極める」
といった傲慢さはありません

「私たちは神様に生かれてこそ、今がある」
「私たちは神様と比べて、不完全で無力な存在」
という謙虚な考え方が宗教にはあります

哲学は、ただ言葉の意味を探究するだけですが、それでは
疑ってばかりいる人と変わりません

一歩も進まないで、ただ頭の中で
「あーでもない、こーでもない」
と考えながら、同じ場所で足踏みしているだけです

仏教の
毒矢のたとえ話
にもあるように

「ある人に突き刺さった毒矢について、この矢はどこから
飛んできたのか?
誰が射たのか?
射た人は誰なのか?
それら全てわからないうちは、矢は抜けない」

と哲学者みたいなことを言っていたら、その射られた人は
死んでしまうでしょう

お釈迦様が説いたように
「まず毒矢を早く抜いて
薬を塗るなど、どんな時でも、今、何を
しなければいけないのかを考え、実践することが
大切なのだ」という

宗教的な考え方が、毒矢で射られたような悩める私たちを
救うのです

[まとめ]

哲学は、人間が、あらゆるものの言葉の意味を
見出そうとチャレンジしますが、観念の遊戯に
終わる役に立たないもの

人間至上主義の不遜で悪魔的・物質的な学問でした

哲学の全てを頭から否定するつもりはありません

が、基本的には、このように生命を感じられないものです

宗教は、まず神仏を認め、神仏から教えられている真理を
素直に信じ、毎日の生活で教えを活かし、魂の救いと心の
安らぎ、生活の安定を得ようとするものです

科学者スウェーデンボルグは、哲学者について

「彼らの言う知恵とは言葉に過ぎません
彼らは、ある言葉の意味を表現するためでなく、単に
論争するために学んでいます

彼らは、論争しているうちに混乱して何が真実かわからなく
なって物質的なものにすがり、心に知恵の光が入らなくなります
結果、霊的な面では、無知で素朴な人々よりもずっと盲目と
なり、愚か者になります」

と語っています

私は、哲学を例えるなら
人間が「精巧に作成した模型」の新緑の木…

勿論、見た目はバッチリだけど、中身は空洞で生命のない冷たい模型です

宗教は、神様が創造した「みずみずしく生きている
本物の生命溢れる」新緑の木…

そんなイメージが浮かびます

あなたはどう感じましたか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?