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"意味のない"ことを考える

最近、"意味のない"ことを考えなくなったなあとふと思った。子供の頃はよく考えていた。"意味のない"ことっていうのは例えば

なんで1日は24時間なんだろう 

とか

なんで一年は12か月なんだろう

とか

なんで季節は4つなんだろう

とかだ。

今この疑問をどこかの小さな子供に尋ねられたとして、私ははっきりとした回答をすることはできない。おそらく

昔の偉い人が決めたんだよ

とか言ってお茶を濁すだろう。

だんだん大人になっていく過程で、生きる上でどういったことが必要でどういったことが不要かと判断する力がついてくる。考えても結果に繋がらないこと、もしくは考えても自分の能力では答えが導けなさそうなことは、考えても"意味のない"こと判断して頭の中から捨ててしまう。つまり頭の中に溢れる物事を、"意味のある"BOXと"意味のない"BOXに仕分けしているのだ。"意味のない"BOXに入れた事柄でも、本当は意味があるはずだった事柄もあるとは思う。考えても意味がないと捨ててしまわずに、必死に一つのことを考え抜くことができる人がその道のプロフェッショナルになるのかもしれない。しかし私のような一般人が社会の中でそこそこ上手く生きていくためには、ある程度諦めてどんどん"意味のない"BOXに捨ててしまわないと、頭の中が片付かない。この片付けがものすごく速く、頭の中の断捨離ができる人が世渡り上手と呼ばれるのだろう。


子供の頃は頭の中を片付けることができなかった。目に入るもの、耳に入るもの、触れるもの、あらゆるものが頭の中に散らばって片付けられない。今なら一瞬で"意味のない"BOXに入れるような事柄も、"意味のある"BOXに入れて1人延々と考え続けたりしてた。


小学校の頃、算数の授業で毎回授業の終わりに感想を書かされていた。毎回の授業初めには、前回の授業の感想の中から先生がピックアップしたものが1つか2つ発表された。たいていみんな「あの問題が難しかったです。」などの感想を書くのだが、少し知的な子が的を射た感想を書くと先生がそれを発表し、クラスから拍手が起こる。


その日の授業は数の単位の授業だった。一、十、百、千…と続き、兆の先には京、垓、穣と聞いたことのない単位が続き、最後は無量大数で終わる。私は聞いたことのない単位達に興奮を覚えたが、無量大数の先が無いことに違和感を覚えた。


無量大数より大きい数はどうなるんだろう?
この先にも数は続くし、数に終わりはないはずだ。


そう思った。


終わりがない というのを実感した時にあることを思い出した。


私はよく宇宙のことを考えていた。宇宙には終わりがなく延々と続くということを聞いていた。それがよく分からなかった。宇宙の中をずっと真っ直ぐ進み続けても終わりがないというのが不思議だった。私はその謎に魅了され、延々と宇宙のことを考えていたのだ。


この算数の授業終わりに、私は数字と宇宙には"終わりがない"という共通点があると感じた。これは小学生の私にとっては世紀の大発見だった。私は興奮気味に鉛筆を取り、プリントに感想を書いた。


「数字が延々と続くというのは不思議だと思った。宇宙も延々と続くので、数字と宇宙は似ていると思った。」


後日、算数の授業で私の感想が先生の口から発表された。クラスからは拍手が起きた。私は長年の研究の成果を学会で発表する博士のような気分だった。この世紀の大発見をクラスのみんなと共有できて非常に嬉しかったのだ。


この頃の私は物事を簡単に"意味のない"BOX捨てる世渡り上手ではなかった。今の私は無意識に断捨離をしている。おかげで頭の中は割と片付いている。しかしどこか寂しい。普段の生活でもっと捨てずに取っておくべき事があるのではないだろうか。私はなにかどうでも良さそうなことが頭に浮かんだら、一度昔の自分に訊いてみようと思う。「これは"意味のない"BOXに捨てて良い?」と。多少頭の中が散らかっても、その方が人生楽しくなるのではないか。


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