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囲碁史記 No.6

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囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.6は囲碁史記 第106回から第123回まで 本因坊秀栄が亡くなった後、日本棋院が設立されるまでの囲碁界を紹介…
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2024年7月の記事一覧

囲碁史記 第109回 巌埼健造時代の方円社

三代目社長・巌埼健造 明治三十二年(一八九九)一月二十日、方円社社長・中川亀三郎が隠退…

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囲碁史記 第110回 巌埼健造の逝去 

巌埼健造の性格 抜群の行動力で、一時期勢いを失った方円社を盛り立ててきた巌埼健造だが、…

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囲碁史記 第111回 囲碁同志会と中川千治の方円社長就任

中川の方円社退社 明治三十二年に方円社三代目社長に就任した巌埼健造は、社の立て直しに尽…

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囲碁史記 第112回 秀哉の名人就位

月曜会 明治四十一年二月十八日に第二十一世本因坊秀哉となった田村保寿は、同年九月あるい…

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囲碁史記 第113回 囲碁評論家の登場

新聞碁と囲碁雑誌 以前紹介したが、新聞に初めて碁譜が載ったのは明治十一年の郵便報知新聞…

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囲碁史記 第114回 大正期の囲碁の普及と廃止論

はじめに これまでも述べたが、明治維新後、西洋文化が流入すると、それまでの日本古来の文…

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囲碁史記 第115回 「評の評」事件

事件の発端 大正七年、囲碁史に残る事件が発生する。本因坊秀哉による野沢竹朝の破門である。  新聞碁の勝抜戦敗退戦で名をあげ「鬼将軍」の 異名をとった本因坊秀栄門下の野沢竹朝は、大正四年、三十五歳の時に五段へ進み、銀座松本楼で披露会を催する。同年八月、雑誌「虎の巻」誌上に「評の評」を発表するが、これが事件の発端となる。  「虎の巻」は元時事新報の記者、矢野晃南(由次郎)が経営する富の日本社が刊行する囲碁雑誌。矢野が晩年刊行した「棋界秘話」(昭和四年一月、梓書房刊)には掲載が

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囲碁史記 第116回 大正期の棋士

 明治以降、対立を続けてきた囲碁界が合流へと向っていく大正時代、本因坊秀栄や巌埼健造の…

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囲碁史記 第117回 大正期の棋士②

 前回、大正期に活躍した棋士を何人か紹介したが、他にもたくさんいるのでもう少し紹介して…

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囲碁史記 第118回 方円社、中川社長辞任と広瀬の就任

雁金の方円社復帰 大正八年四月、長らく囲碁界の表舞台から遠ざかっていた雁金準一が、十四…

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囲碁史記 第119回 日本囲碁協会の頓挫

 大正末期、囲碁界には急速に合流の機運が高まり、紆余曲折を経ながら日本棋院が設立される…

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囲碁史記 第120回 裨聖会

裨聖会設立 大正十一年十一月、方円社の雁金準一、岩佐銈、鈴木為次郎、瀬越憲作、本因坊門…

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囲碁史記 第121回 中央棋院設立と分裂

 前回も述べたが、大正十一年十二月に革新的な改革を提唱する裨聖会が設立され、方円社では囲…

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囲碁史記 第122回 関東大震災と囲碁界

 大正十一年末から十二年にかけて、囲碁界は激動の時期を迎える。十一年十一月に裨聖会設立声明が出され、十二年一月に方円社の丸ビル移転、および中央棋院が設立される。そして四月には中央棋院が分裂するなど、目まぐるしく情勢が変わっていった。  そうした中で、九月一日十一時五十八分に関東大震災が発生。死者・行方不明者は推定十万五千人といわれ、明治以降、日本の最大規模の災害は囲碁界にも大きな影響を及ぼしていく。 橋本宇太郎の記録 地震発生時の様子について橋本宇太郎は「風と刻」で詳細に

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